24.8.13

他者になるということ

 
 書くことがなくて困っている。困るといっても物書きでもない私が書かないことで収入が著しく減少するということはない。全くない。私の言葉でアフリカのとある地域で飢餓に苦しんでいる子供が救われたり自殺を思いとどまる中学生がいるわけでもないので何か書かなくなったからといって誰かが困るということもない。筆の遅い私が何か書こうと思うと2時間くらいはあっという間に過ぎてしまう。その間パソコンを起動させている時間分の電気代はかかるし画面を注視しなければならないので目には良くない。それに目が疲れてくると肩も凝ってくる。そう考えると何も書かない方がかえっていろいろと好都合なような気もする。


 しかし不思議なものでそれでも何かを書きたいなとは思っている。なぜか?

 それは何かこうして文章を書くというのは実は心弾む行為だからかもしれない。何かを書こうとするにはいったん日常の自分の思考モードから離れて新たな思考モードを立ち上げなければならない。それまでのんびりテレビを観たり風呂掃除をしたり食事の支度をしたりしているときなどの日常の行為から離れないことにはモノを書くことはできない。他の方々はどうか分からないが少なくとも私は書けない。
 なにしろ今考えていることをこうして活字にして書き記すというのは普段喋っている言葉遣いをそのまま用いていては不可能で、いつもなら一人称を「ボク」とか「オレ」としているところを「私」にしてみたり二人称を「お前」としていたところを「あなた」という具合に言葉遣いを変えなければならなく、言葉遣いを変えるとどうしても物事の考え方や性格が変わってくるものである。
 考え方や性格が変わるから言葉遣いが変わると思われる方も多いだろうが実はそうではない。その逆である。学生のころはいい加減で信用ならないような人物が会社に入って新人研修を受け社会人相応の受け答えを身につけた途端、趣味や服装どころか態度まで変わり急に大人っぽくなり学生時代の浮ついたところは消え失せ落ち着いた人物になっていた、というような経験をした人もいると多いだろうと思う。

 言葉遣いの変化はそのまま価値観や思考の変化に直結している。だから普段何気なく生活している私とモードを切り替え何かを書こうと机に向かっている私はほとんどまったくの他者なのである。だから他者の私が何を書くのか、どのような論点に着地するのかといのは書き始めた時点では想像も出来ません。もちろん何か書きたいことがあって書くときは目標到達点をある程度定め机に向かうが、いざ書き終えるとその到達点に届かないというようなことが多々ある。届かなかったというより別の目的地に着いてしまっていたと言った方が近いかもしれない。なにしろ書き始める前に到達点を予測している私と書くための思考モードを起動させた私では別人なのだから無理もない。だから書き終えた地点に立ちそこから見える世界は書く前には見ることはもちろん想像もできない世界になっていたりする。

 普段私たちが物事を見聞きしたり認識しているときに用いている思考の枠組みは非常に限定的なものである。我々はあらゆる世界認識の際にどこまでが現実でどこからが非現実なのかを無意識のうちに境界線を引き、そうすることではじめてあらゆる事象を認識可能なものとして立ち上げることが可能になる。その「世界の切り取り方」は自分が知らない間に無意識に採用したものであるからそれを変更したり修正したりするのは非常に難しい。なぜならそれは変更しようにもいつどのようにどこで採用したのか分からないしさらには採用したことすら知らないので変更のしようがない。
 しかし言葉遣いを変え思考のモードを切り替えると「世界の見え方」が違ってくることがある。言葉というのはいわば境界線である。虹を7色に分ける日本人と同じ虹を3色に分けるアフリカの部族とでは世界を認知する仕方が異なる。虹は初めから7色だったわけではなくそこに7通りの言葉を与えるか3通りの言葉を与えるかでその見え方は異なってくる。そのように境界線を引く仕方を変え場所を変えると「世界の見え方」までが変わってくる。他者になるとはそういうことである。

 「世界の切り取り方」を変え「世界の見え方」を変えることで今の私では説明も理解も出来ない「私」に次の瞬間なっているかもしれない、そのことは結構ドキドキすることのように思うのです。だからときどき何かを無性に書きたくなるのかもしれない。

13.3.13

物語に身を浸す

最近AmazonYouTubeのレビューを観ていると少なからず気が滅入ってしまうことがある。
そこに書かれてある言葉は本や映画を観ての感想ではなく批評になっているのがとても多い。確かに「楽しかった」「面白かった」「つまらない」という言葉だけで本や映画を観た経験を済ますのはいかがなものかと思う。なぜ楽しかったのか?なぜ私はこれほどまでに心を動かされたのか?それを説明すべく手持ちの語彙を総動員してそれらの思いに輪郭を与えていく作業は不可欠だろうと思う。

しかしそれとそこに書かれてあるコメントらはどうも方向性が違う。書かれてあるのは物語の設定であるとかリアリティ、あるいはカメラワークの良し悪しというようにそこから一歩引いている者としての意見である。そこには物語の中で時の流れを感じ水の冷たさに震え草の匂いに嗅ぎ心躍るといったような文字通り物語に身を浸すという経験が欠落している。誰もが批評家になってしまっている。

そういう状況が際立ってくると作る側もどうにかその人らの鼻を明かしてやろうとあれこれ細工を施すようになってくる。そのように作られたものは確かに手が込んでいて感心するし楽しい。批評する側も批評のしがいがあるから話題にもなる。でもそれらは作者の創意に満ち溢れ読み手が誤解できるだけの余白が残されておらずすぐに飽きてしまう。


吉本隆明がある本でいい作家の条件として次のようなことを挙げていた。
文学作品のよさというのは意味の流れだけではなくて、何かを感じさせる、言ってみれば、文体の表現的な価値なのかもしれません。そういうものを含めて読者に感じさせるものがあったら、一流の作家といえるのではないでしょうか。読んだ全部の人が「俺だけにしかわからない」と感じるとしたら普遍性があるということになると思います”


そもそもあらゆる物語には構造があってその構造はそれほど多くはなくどの物語もその有限の物語構造を反復しているに過ぎない。我々がそれでも有史以前から飽かずに物語を求めてきたのは物語の内容などにではなく物語という装置が生存上必須のものであるからではないだろうか?それほどの力が物語にはある。だから物語に身を浸すことができないというのはとてももったいないことのように思います。

7.3.13

大人の条件

 大人になること。これは私が自らに課している命題のひとつである(なんと課題の多いこだろう)。
ではどうすれば大人になれるのか、大人の条件とはなにか。

 二十歳を超えること、自分の稼ぎで生活すること、結婚すること、子どもを養うこと。いくつか思い浮かべてみたがどれも納得できない。おそらくこのように実定的な事柄が大人の条件ではない。このような条件を満たした人でも子どものような人はいくらでも見かけることが出来る。

 そもそも大人とは一体どのような存在なのだろうか?私が思うにそれは多くの人格を自らのうちに抱え込んでおける人物のことだろうと思う。
私はまだ28歳だが自分が10歳の時に思い描いた28歳は人生とはどんなものなのかある程度見通しをたてて泰然自若と日々暮しているものだと思っていた。しかしいざ自分がその年になってみるととんでもないそんなことはなかった。多くの人は私と同じような感覚だろうとおもう。

 私がこの歳に差し掛かって実感するのは実に多くの人格が自分の内側に存在するのだなあということです。いやホントに多くの人格がいる。明るく陽気なもの、人に優しいもの、やる気に満ちているもの。そんなものの一方で私の中には妬み、疑い、恨み、憎しむ邪悪な人格も確かに存在する。そんな人格が表に出てきて悪さをすることがしばしばある。歳を重ねるごとに不要な邪念にとらわれ身動きがとれなくなる。
子どもはそうではない。子どもはそれこそ無垢に遊び自分の嫌いなことを受け入れることはしなくても良い。しかしその分大変脆い存在である。自らの世界があまりに透明度が高いために一滴の汚水が紛れ込んだだけでたちまちその世界は失われてしまう。

 我々は歳を重ねるに連れ多くの邪悪な人格を自らの内に抱え込まねばならなくなる。自分が理想とするもの、あるべき姿と思い描くものからかけ離れた邪悪な人格は我が身の骨肉に食い込む削り取ることなどできない。なんとか受け入れていくしかない。
 受け入れるというのは屈服するということではない。もちろんそれを讃えるということでもない。受け入れるというのはその来歴も知れず制御もできない邪悪なものをよく観察して脇に置いておくということである。どのような場面でそれは顔を出しどのような行動をするのかそのことについてよく観察しその行動を把握はするけども気にしない。自分にとって不都合で不快な人格と共生していくことそれが大人に求められる条件であると思う。


18.2.13

As a passer

 「私たちは自分が欲するものを他人に贈ることによってしか手に入れることができない」そういったのは文化人類学者のレヴィ=ストロースです。

「良きパッサー」であること。これは私が常々心がけていることです。私にはオリジナルと呼べる手持ちの資源はほとんどありません。不器用ですしクリエティブな才能がある訳でもない。頭の回転がさほど早いわけでもなければ、交渉術が優れているわけでもない。あなたには一体何が出来るのだと誰かに詰問されたらしどろもどろしてしてしまいます。ただそんな私でも誰かに贈り物をすることは出来ます。

 手持ちのない奴がどうやって贈り物をするのか訝しがる方もいるかと思いますが、私は出来ると思っています。別に難しいことじゃない。誰かから聞いた事、本を読んで知った事、人から教えてもらった技術や知識というのは誰しもが持っているものです。それらを難しく分かりにくければ自分なりに噛み砕いてたとえ話をいれるなどして少しだけアジャストして次の人にパスすればいい。そう思います(この考え方自体すでに誰かから聞いたことです)。

 ではなぜパスをするのか、それは知識や技術といったものは循環運動の中に置かれなければならないからです。知識や技術の価値はその内に自存するものではなく、それは誰かにパスをすることで初めて価値を持ち得ます。価値といってもその技術でいくら儲けたとかそういうことではありません。それは副次的な結果に過ぎず大事なのはパスすることそのこと自体に価値があるということです。パスをする人にはもちろんそうでない人よりも多くのパスが贈られる。当然のことながら受け取るだけ受け取って次の人には一向にパスをしないような人にはやがてだれもパスを贈らなくなります。パスを贈る人ほど活発な循環運動の中に身を置くことができる。循環運動が活発だと要はそれだけ自らの知識や技術を参照する機会が多くなるということです。そうやって繰り返し参照しているとやがて自分はなぜこのような知識や技術を必要としたのか、逆にこれ以外のことはなぜ知らないのかという根源的な問いにぶつかります。もちろんそれについての決まった答えなんかはありませんがその場その場で暫定的な答えを出すこと出来る。問いにぶつかるたびに暫定的な答えを出しては崩しまた作り直す。そうやって絶えず更新していくことでしかその奥深くへは到底行けません。

 別に奥深くへたどり着いたところで何か奇跡的に素晴らしいものがあるとは思ってませんがただより良く生きていこうと思うならばそのようなプロセスは欠かせない。私はそう思います。
木々

17.1.11

解釈された意味

以前書店で立ち読みしたBRUTUSの特別号に紹介されていた、Gregory Colbertというアーティストの写真が妙に気になっている。聖典らしきものを読む少年の前で一頭の象が跪きじっとしているというような構図だったが、言葉も通じず種も違う両者がただ近くに一緒にいるだけでなにかとても重要なコミュニケーションが果たされているような印象を受けた。
我々は常に解釈された意味を読んでいる。いかなる情報であれ、それは読み手の都合のいいよう肯定され否定もされる。それまで培ってきた事実体験、知識などを総動員した上で、そのうちの何かとリンクを張ることで初めて自らにとって有用な情報へと移行させることが出来る。それ以外の情報、つまり読み手にとって完全に中立的な情報はそもそも情報として我々の前に顕現し得ない。この知的動作はコンピューターや人工知能では(少なくとも現段階では)不可能な人間特有なアクションである。
だから私が思う優れた作家というのは、多くの人の「誤解」を可能にする人のことだと思う。「なるほど、この作家がこの作品を通じて表現したかったのはこういうことか。」と暫定的に解釈する。しかしどこかの段階でそれが恣意的解釈なのだということに気づいたとき、今度は自らがなした解釈を疑う。「いや、俺なんかが思うような安易なことは、この作家は考えないはずだ。もっと深い、隠されたメッセージがあるはずだ。」とさらなる恣意的解釈を試みる。無知のスパイラルの完成である。そこには常に自分が今立っている場所からは見ることの出来ない「無知」が存在する。いくら解釈を試みても「まだ何かメッセージがあるはず。」という思いに駆られる。
吉本隆明のいう知識を極めたあとに着地すべき「非知」とは、このことを意味しているのかもしれないと思った。

3.1.11

2011年

暇だし新年ということで今年の目標を書いてみようと思う。「暇だからまあ書いてみるか」といった目標にどれだけ意味があるかは分からないが・・・。

(1) アナログな感覚を大切にする

元来自分は文型で懐古的人間なのでデジタルのように0か1を組み合わせてその関係であらゆる物事を理解していこうという考え方にはなかなか馴染めない。それが合理的でとても便利で様々な領域の発展に必要不可欠なものであることの理屈は分かる(たぶん)。だがその仕組みがどうも信用できない。なんとなく。

デジタルの領域では削ぎ落とされてしまった01の中間にある無限のグラデーションをもっと大切にしたほうがいいように思う。そのグラデーションの中には01を成立させるための幾つも因子が存在するが同時にその成立を妨げようとする協調性のない因子も存在する。しかしそんなへそ曲がりな因子が存在した方が01の関係が安定的に保たれる。矛盾する話しだけど。協調性のない因子が少しでも存在することで、その組織内で支配的に振舞う因子にとって対処できないような想定外のトラブルが発生しても、その協調性のない因子が対処できれば何とかシステムは生き延びることが出来る。ある程度の多様性が残されている方がシステムとして生き延びる確立が格段にあがる。不安定要素があるからこそシステム全体が安定的に保たれるというとなんとも妙だが、その矛盾を矛盾なく成立する世界がアナログの領域には残されていると思う。

(2) 語彙を増やす

自らの思いを些細なニュアンスも含め少しでも相手に理解してもらおう思うなら、表現をもっと細かく割っていく必要があるとここ数年来思っていることなので、今年も引き続き語彙を増やすよう意識して生活したい。

(3) 具体的な目標を立てない

こんなことを書くと「先に書いた二つの目標はなんだ、出鱈目か!」「この天邪鬼!またひねくれた事を書きやがって。」と思うかもしれないが、そうじゃありません。

何故具体的目標を立てないかというと、数値的に計量可能な目標やロールモデルを迂闊に持ってしまうと、それしか見えずそれ以外のことを考えなくなってしまうように思うのともうひとつに、今自分が当然だとしているあらゆる思考、価値観というのは「オルタナティヴ」であるということから。現在支配的な思考・価値観はたまたまある歴史的・地理的な条件によって成立しているものに過ぎないというように考えると、そんなちょっとした入力で激変してしまうような価値観を不動なものとして後生大事にしておいては非常に危ういし、それ以上を望むこと叶わないように思う。

ということで本年もよろしくお願いします。

25.12.10

「今」に立つ

最近の課題は「『今』に立つ」ということ。これは心の在り方としてではなく、あくまで身体運用上の課題であると自分では思っている。

「今」というのは直線的に流れる時間のある一点、ある瞬間を示すものではない。仮に「今」という時間がある点としてあるならば、ひとつの「今」の後には直ちに次の「今」という点が浮かび上がってくる。そのように無数の瞬間的点から成り立っている「今」は一見連続しているが、それら点と点の間には無数の「切れ目」が存在する。しかし我々は普段「時間」というものを「切れ目」のない連続的存在としてイメージすることが出来る。

であるならば「今」というのは点としてではなく、面的イメージを有するものではないだろうか。「今」というのを「いままで」と「いまから」というように過去と未来の両方向に展開可能な存在としてイメージしてみるとき、時間の連続性がより明確に浮かび上がってくる。「今」は未来と過去の両極に手を伸ばしながら我々のもとにとどまっている。未来と過去の間に「今」があり、その間としての「今」から未来と過去が生まれる。

では「今」に立つというのは具体的にどういうことか。

小学校のとき柔道を習っていたが、相手を投げるとき投げの動作に入る直前に「この背負い投げは決まるな」という感覚があり、そして「投げ終わった後の姿」が頭にイメージとして浮かぶことがたまに(ホントにたまに)あった。そういった感覚のときは本当に綺麗に技が決まった(ように思う)。逆に投げられるときも同じような感覚があった。

それはそれまで型稽古を繰り返して得た過去の「相手を投げるイメージ」をそっくりそのまま未来に投影し、そのイメージを時間的に先取りしトレースするという複雑面倒な手順を時間的にはほんの一瞬の間に行ったということではないか。

過去に積み上げた経験から未来を創り出し、そのイメージに身を投じるべく動く、ということが私にとっての「『今』に立つ」ということです。