24.8.13

他者になるということ

 
 書くことがなくて困っている。困るといっても物書きでもない私が書かないことで収入が著しく減少するということはない。全くない。私の言葉でアフリカのとある地域で飢餓に苦しんでいる子供が救われたり自殺を思いとどまる中学生がいるわけでもないので何か書かなくなったからといって誰かが困るということもない。筆の遅い私が何か書こうと思うと2時間くらいはあっという間に過ぎてしまう。その間パソコンを起動させている時間分の電気代はかかるし画面を注視しなければならないので目には良くない。それに目が疲れてくると肩も凝ってくる。そう考えると何も書かない方がかえっていろいろと好都合なような気もする。


 しかし不思議なものでそれでも何かを書きたいなとは思っている。なぜか?

 それは何かこうして文章を書くというのは実は心弾む行為だからかもしれない。何かを書こうとするにはいったん日常の自分の思考モードから離れて新たな思考モードを立ち上げなければならない。それまでのんびりテレビを観たり風呂掃除をしたり食事の支度をしたりしているときなどの日常の行為から離れないことにはモノを書くことはできない。他の方々はどうか分からないが少なくとも私は書けない。
 なにしろ今考えていることをこうして活字にして書き記すというのは普段喋っている言葉遣いをそのまま用いていては不可能で、いつもなら一人称を「ボク」とか「オレ」としているところを「私」にしてみたり二人称を「お前」としていたところを「あなた」という具合に言葉遣いを変えなければならなく、言葉遣いを変えるとどうしても物事の考え方や性格が変わってくるものである。
 考え方や性格が変わるから言葉遣いが変わると思われる方も多いだろうが実はそうではない。その逆である。学生のころはいい加減で信用ならないような人物が会社に入って新人研修を受け社会人相応の受け答えを身につけた途端、趣味や服装どころか態度まで変わり急に大人っぽくなり学生時代の浮ついたところは消え失せ落ち着いた人物になっていた、というような経験をした人もいると多いだろうと思う。

 言葉遣いの変化はそのまま価値観や思考の変化に直結している。だから普段何気なく生活している私とモードを切り替え何かを書こうと机に向かっている私はほとんどまったくの他者なのである。だから他者の私が何を書くのか、どのような論点に着地するのかといのは書き始めた時点では想像も出来ません。もちろん何か書きたいことがあって書くときは目標到達点をある程度定め机に向かうが、いざ書き終えるとその到達点に届かないというようなことが多々ある。届かなかったというより別の目的地に着いてしまっていたと言った方が近いかもしれない。なにしろ書き始める前に到達点を予測している私と書くための思考モードを起動させた私では別人なのだから無理もない。だから書き終えた地点に立ちそこから見える世界は書く前には見ることはもちろん想像もできない世界になっていたりする。

 普段私たちが物事を見聞きしたり認識しているときに用いている思考の枠組みは非常に限定的なものである。我々はあらゆる世界認識の際にどこまでが現実でどこからが非現実なのかを無意識のうちに境界線を引き、そうすることではじめてあらゆる事象を認識可能なものとして立ち上げることが可能になる。その「世界の切り取り方」は自分が知らない間に無意識に採用したものであるからそれを変更したり修正したりするのは非常に難しい。なぜならそれは変更しようにもいつどのようにどこで採用したのか分からないしさらには採用したことすら知らないので変更のしようがない。
 しかし言葉遣いを変え思考のモードを切り替えると「世界の見え方」が違ってくることがある。言葉というのはいわば境界線である。虹を7色に分ける日本人と同じ虹を3色に分けるアフリカの部族とでは世界を認知する仕方が異なる。虹は初めから7色だったわけではなくそこに7通りの言葉を与えるか3通りの言葉を与えるかでその見え方は異なってくる。そのように境界線を引く仕方を変え場所を変えると「世界の見え方」までが変わってくる。他者になるとはそういうことである。

 「世界の切り取り方」を変え「世界の見え方」を変えることで今の私では説明も理解も出来ない「私」に次の瞬間なっているかもしれない、そのことは結構ドキドキすることのように思うのです。だからときどき何かを無性に書きたくなるのかもしれない。

13.3.13

物語に身を浸す

最近AmazonYouTubeのレビューを観ていると少なからず気が滅入ってしまうことがある。
そこに書かれてある言葉は本や映画を観ての感想ではなく批評になっているのがとても多い。確かに「楽しかった」「面白かった」「つまらない」という言葉だけで本や映画を観た経験を済ますのはいかがなものかと思う。なぜ楽しかったのか?なぜ私はこれほどまでに心を動かされたのか?それを説明すべく手持ちの語彙を総動員してそれらの思いに輪郭を与えていく作業は不可欠だろうと思う。

しかしそれとそこに書かれてあるコメントらはどうも方向性が違う。書かれてあるのは物語の設定であるとかリアリティ、あるいはカメラワークの良し悪しというようにそこから一歩引いている者としての意見である。そこには物語の中で時の流れを感じ水の冷たさに震え草の匂いに嗅ぎ心躍るといったような文字通り物語に身を浸すという経験が欠落している。誰もが批評家になってしまっている。

そういう状況が際立ってくると作る側もどうにかその人らの鼻を明かしてやろうとあれこれ細工を施すようになってくる。そのように作られたものは確かに手が込んでいて感心するし楽しい。批評する側も批評のしがいがあるから話題にもなる。でもそれらは作者の創意に満ち溢れ読み手が誤解できるだけの余白が残されておらずすぐに飽きてしまう。


吉本隆明がある本でいい作家の条件として次のようなことを挙げていた。
文学作品のよさというのは意味の流れだけではなくて、何かを感じさせる、言ってみれば、文体の表現的な価値なのかもしれません。そういうものを含めて読者に感じさせるものがあったら、一流の作家といえるのではないでしょうか。読んだ全部の人が「俺だけにしかわからない」と感じるとしたら普遍性があるということになると思います”


そもそもあらゆる物語には構造があってその構造はそれほど多くはなくどの物語もその有限の物語構造を反復しているに過ぎない。我々がそれでも有史以前から飽かずに物語を求めてきたのは物語の内容などにではなく物語という装置が生存上必須のものであるからではないだろうか?それほどの力が物語にはある。だから物語に身を浸すことができないというのはとてももったいないことのように思います。

7.3.13

大人の条件

 大人になること。これは私が自らに課している命題のひとつである(なんと課題の多いこだろう)。
ではどうすれば大人になれるのか、大人の条件とはなにか。

 二十歳を超えること、自分の稼ぎで生活すること、結婚すること、子どもを養うこと。いくつか思い浮かべてみたがどれも納得できない。おそらくこのように実定的な事柄が大人の条件ではない。このような条件を満たした人でも子どものような人はいくらでも見かけることが出来る。

 そもそも大人とは一体どのような存在なのだろうか?私が思うにそれは多くの人格を自らのうちに抱え込んでおける人物のことだろうと思う。
私はまだ28歳だが自分が10歳の時に思い描いた28歳は人生とはどんなものなのかある程度見通しをたてて泰然自若と日々暮しているものだと思っていた。しかしいざ自分がその年になってみるととんでもないそんなことはなかった。多くの人は私と同じような感覚だろうとおもう。

 私がこの歳に差し掛かって実感するのは実に多くの人格が自分の内側に存在するのだなあということです。いやホントに多くの人格がいる。明るく陽気なもの、人に優しいもの、やる気に満ちているもの。そんなものの一方で私の中には妬み、疑い、恨み、憎しむ邪悪な人格も確かに存在する。そんな人格が表に出てきて悪さをすることがしばしばある。歳を重ねるごとに不要な邪念にとらわれ身動きがとれなくなる。
子どもはそうではない。子どもはそれこそ無垢に遊び自分の嫌いなことを受け入れることはしなくても良い。しかしその分大変脆い存在である。自らの世界があまりに透明度が高いために一滴の汚水が紛れ込んだだけでたちまちその世界は失われてしまう。

 我々は歳を重ねるに連れ多くの邪悪な人格を自らの内に抱え込まねばならなくなる。自分が理想とするもの、あるべき姿と思い描くものからかけ離れた邪悪な人格は我が身の骨肉に食い込む削り取ることなどできない。なんとか受け入れていくしかない。
 受け入れるというのは屈服するということではない。もちろんそれを讃えるということでもない。受け入れるというのはその来歴も知れず制御もできない邪悪なものをよく観察して脇に置いておくということである。どのような場面でそれは顔を出しどのような行動をするのかそのことについてよく観察しその行動を把握はするけども気にしない。自分にとって不都合で不快な人格と共生していくことそれが大人に求められる条件であると思う。


18.2.13

As a passer

 「私たちは自分が欲するものを他人に贈ることによってしか手に入れることができない」そういったのは文化人類学者のレヴィ=ストロースです。

「良きパッサー」であること。これは私が常々心がけていることです。私にはオリジナルと呼べる手持ちの資源はほとんどありません。不器用ですしクリエティブな才能がある訳でもない。頭の回転がさほど早いわけでもなければ、交渉術が優れているわけでもない。あなたには一体何が出来るのだと誰かに詰問されたらしどろもどろしてしてしまいます。ただそんな私でも誰かに贈り物をすることは出来ます。

 手持ちのない奴がどうやって贈り物をするのか訝しがる方もいるかと思いますが、私は出来ると思っています。別に難しいことじゃない。誰かから聞いた事、本を読んで知った事、人から教えてもらった技術や知識というのは誰しもが持っているものです。それらを難しく分かりにくければ自分なりに噛み砕いてたとえ話をいれるなどして少しだけアジャストして次の人にパスすればいい。そう思います(この考え方自体すでに誰かから聞いたことです)。

 ではなぜパスをするのか、それは知識や技術といったものは循環運動の中に置かれなければならないからです。知識や技術の価値はその内に自存するものではなく、それは誰かにパスをすることで初めて価値を持ち得ます。価値といってもその技術でいくら儲けたとかそういうことではありません。それは副次的な結果に過ぎず大事なのはパスすることそのこと自体に価値があるということです。パスをする人にはもちろんそうでない人よりも多くのパスが贈られる。当然のことながら受け取るだけ受け取って次の人には一向にパスをしないような人にはやがてだれもパスを贈らなくなります。パスを贈る人ほど活発な循環運動の中に身を置くことができる。循環運動が活発だと要はそれだけ自らの知識や技術を参照する機会が多くなるということです。そうやって繰り返し参照しているとやがて自分はなぜこのような知識や技術を必要としたのか、逆にこれ以外のことはなぜ知らないのかという根源的な問いにぶつかります。もちろんそれについての決まった答えなんかはありませんがその場その場で暫定的な答えを出すこと出来る。問いにぶつかるたびに暫定的な答えを出しては崩しまた作り直す。そうやって絶えず更新していくことでしかその奥深くへは到底行けません。

 別に奥深くへたどり着いたところで何か奇跡的に素晴らしいものがあるとは思ってませんがただより良く生きていこうと思うならばそのようなプロセスは欠かせない。私はそう思います。
木々

17.1.11

解釈された意味

以前書店で立ち読みしたBRUTUSの特別号に紹介されていた、Gregory Colbertというアーティストの写真が妙に気になっている。聖典らしきものを読む少年の前で一頭の象が跪きじっとしているというような構図だったが、言葉も通じず種も違う両者がただ近くに一緒にいるだけでなにかとても重要なコミュニケーションが果たされているような印象を受けた。
我々は常に解釈された意味を読んでいる。いかなる情報であれ、それは読み手の都合のいいよう肯定され否定もされる。それまで培ってきた事実体験、知識などを総動員した上で、そのうちの何かとリンクを張ることで初めて自らにとって有用な情報へと移行させることが出来る。それ以外の情報、つまり読み手にとって完全に中立的な情報はそもそも情報として我々の前に顕現し得ない。この知的動作はコンピューターや人工知能では(少なくとも現段階では)不可能な人間特有なアクションである。
だから私が思う優れた作家というのは、多くの人の「誤解」を可能にする人のことだと思う。「なるほど、この作家がこの作品を通じて表現したかったのはこういうことか。」と暫定的に解釈する。しかしどこかの段階でそれが恣意的解釈なのだということに気づいたとき、今度は自らがなした解釈を疑う。「いや、俺なんかが思うような安易なことは、この作家は考えないはずだ。もっと深い、隠されたメッセージがあるはずだ。」とさらなる恣意的解釈を試みる。無知のスパイラルの完成である。そこには常に自分が今立っている場所からは見ることの出来ない「無知」が存在する。いくら解釈を試みても「まだ何かメッセージがあるはず。」という思いに駆られる。
吉本隆明のいう知識を極めたあとに着地すべき「非知」とは、このことを意味しているのかもしれないと思った。

3.1.11

2011年

暇だし新年ということで今年の目標を書いてみようと思う。「暇だからまあ書いてみるか」といった目標にどれだけ意味があるかは分からないが・・・。

(1) アナログな感覚を大切にする

元来自分は文型で懐古的人間なのでデジタルのように0か1を組み合わせてその関係であらゆる物事を理解していこうという考え方にはなかなか馴染めない。それが合理的でとても便利で様々な領域の発展に必要不可欠なものであることの理屈は分かる(たぶん)。だがその仕組みがどうも信用できない。なんとなく。

デジタルの領域では削ぎ落とされてしまった01の中間にある無限のグラデーションをもっと大切にしたほうがいいように思う。そのグラデーションの中には01を成立させるための幾つも因子が存在するが同時にその成立を妨げようとする協調性のない因子も存在する。しかしそんなへそ曲がりな因子が存在した方が01の関係が安定的に保たれる。矛盾する話しだけど。協調性のない因子が少しでも存在することで、その組織内で支配的に振舞う因子にとって対処できないような想定外のトラブルが発生しても、その協調性のない因子が対処できれば何とかシステムは生き延びることが出来る。ある程度の多様性が残されている方がシステムとして生き延びる確立が格段にあがる。不安定要素があるからこそシステム全体が安定的に保たれるというとなんとも妙だが、その矛盾を矛盾なく成立する世界がアナログの領域には残されていると思う。

(2) 語彙を増やす

自らの思いを些細なニュアンスも含め少しでも相手に理解してもらおう思うなら、表現をもっと細かく割っていく必要があるとここ数年来思っていることなので、今年も引き続き語彙を増やすよう意識して生活したい。

(3) 具体的な目標を立てない

こんなことを書くと「先に書いた二つの目標はなんだ、出鱈目か!」「この天邪鬼!またひねくれた事を書きやがって。」と思うかもしれないが、そうじゃありません。

何故具体的目標を立てないかというと、数値的に計量可能な目標やロールモデルを迂闊に持ってしまうと、それしか見えずそれ以外のことを考えなくなってしまうように思うのともうひとつに、今自分が当然だとしているあらゆる思考、価値観というのは「オルタナティヴ」であるということから。現在支配的な思考・価値観はたまたまある歴史的・地理的な条件によって成立しているものに過ぎないというように考えると、そんなちょっとした入力で激変してしまうような価値観を不動なものとして後生大事にしておいては非常に危ういし、それ以上を望むこと叶わないように思う。

ということで本年もよろしくお願いします。

25.12.10

「今」に立つ

最近の課題は「『今』に立つ」ということ。これは心の在り方としてではなく、あくまで身体運用上の課題であると自分では思っている。

「今」というのは直線的に流れる時間のある一点、ある瞬間を示すものではない。仮に「今」という時間がある点としてあるならば、ひとつの「今」の後には直ちに次の「今」という点が浮かび上がってくる。そのように無数の瞬間的点から成り立っている「今」は一見連続しているが、それら点と点の間には無数の「切れ目」が存在する。しかし我々は普段「時間」というものを「切れ目」のない連続的存在としてイメージすることが出来る。

であるならば「今」というのは点としてではなく、面的イメージを有するものではないだろうか。「今」というのを「いままで」と「いまから」というように過去と未来の両方向に展開可能な存在としてイメージしてみるとき、時間の連続性がより明確に浮かび上がってくる。「今」は未来と過去の両極に手を伸ばしながら我々のもとにとどまっている。未来と過去の間に「今」があり、その間としての「今」から未来と過去が生まれる。

では「今」に立つというのは具体的にどういうことか。

小学校のとき柔道を習っていたが、相手を投げるとき投げの動作に入る直前に「この背負い投げは決まるな」という感覚があり、そして「投げ終わった後の姿」が頭にイメージとして浮かぶことがたまに(ホントにたまに)あった。そういった感覚のときは本当に綺麗に技が決まった(ように思う)。逆に投げられるときも同じような感覚があった。

それはそれまで型稽古を繰り返して得た過去の「相手を投げるイメージ」をそっくりそのまま未来に投影し、そのイメージを時間的に先取りしトレースするという複雑面倒な手順を時間的にはほんの一瞬の間に行ったということではないか。

過去に積み上げた経験から未来を創り出し、そのイメージに身を投じるべく動く、ということが私にとっての「『今』に立つ」ということです。

21.12.10

知ったかぶりの効能


本当は知らないことでも、今持ちうる知識をもってさも知っているかのように語ることは思いのほか重要のように思う。

僕という人間は結局のところ、どこかよそ(・・)でつくられたものでしかないのだ。そしてすべてはよそ(・・)から来て、またよそ(・・)に去っていくのだ。僕はぼくという人間のただの通り道に過ぎないのだ。(ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編 村上春樹著 新潮社版

自らが語る言葉は自らの内にはない。話し手は対話のとき相手が今何を聞きたいと望んでいるのか、その「聞き手の欲望」を察知しなければならない。それは微妙な表情の変化に顕れることもあるだろうが、ほとんどはその話し手と聞き手の間に生じる文脈に依拠する。その文脈を察知し語るという行為こそが「情理を尽くして語る」ということである。

情理を尽くして語られた言葉の中には、当初自分が思いもしていなかった言葉が浮かび「あんなこと喋るつもりはなかったんだけど、でも案外面白いことを発見できたんじゃないか」というように事後的に自らが言いたかったことに気づく。自分が「話し手」でありながら自らが発する声を聞く「聞き手」であるということ。そのような循環の中で知性は活発になっていくものだと思う。

19.12.10

孤独について

自分は孤独だと思う。そんなこと人が聞けば笑うだろうし、そんなのは思い違いだと言うかもしれない。しかし孤独とは友人の多寡や配偶者の有無など客観的指標でもって形式化できるものではないし、他人と比較してどうこうという問題ではない。孤独とはあくまで“自称”で誰かの承認を必要としない。当人が孤独であると思えば孤独なのである。

「言わなきゃ分からない」と主張する人がいるがそういった人々に「言えば分かるのか?」と問いたい。言葉や会話を介してのコミュニケーションは確かに重要なことではあるが、言葉もコミュニケーションの手段のひとつに過ぎない。些細な表情や仕草、息遣いやさらには身に纏うオーラなどを読みとることで成立する沈黙のコミュニケーションだってあるのだ。それを考慮せず言語コミュニケーションの重要性ばかりを強調する人のコミュニケーション能力は疑わしい。

自己とはその中に他者を抱えるということによって成立する。自分の中に他者の目を持ち込むことによってはじめて思考し自我を得ることが出来るのだ。しかしその「自分」という他者が考えていることも理解できず、言語化することすら儘ならず結果「自分」自身からも孤独になってしまう。

だからといって絶望するのではない。分からないながらもここにこうして書き記すように何とか「他者」と交わることは出来るのだ。分かってもらえないということの向こう側に分かるということがあるのだ。その難儀な作業を行うことが出来るのというのが「人間性」のひとつであるように思う。

21.10.09

A Passer

近頃、落語を聴くことが多い。寄席に実際に行ったことはなく、CDを借りたりして聞いているのだがおもしろくて何度も聴いている。特に柳家小三治という噺家が好きでiTunesに入っているほとんどの落語が小三治師匠のものである。落語はテレビのお笑い番組のようなゲラゲラ笑うことは多くないが、何度も聴いて話の内容を知っていようとも思わず笑ってしまうところがある。

すごく失礼な言い方ではあるが古典落語は噺家が代々受け継いできた噺をそのまま繰り返しているに過ぎない。
間合いの取り方、登場人物の設定の仕方は演じる噺家によって変化するが噺の大筋は変わらない。しかも落語には台本がないため噺家はとりあえず師匠の噺をマネするしか習得の方法はない。噺を覚える段階で「ここでこの男が棟梁に対してこういう風に言うから面白いんだよ。」などと説明しながら教える師匠もいなければ、師匠に対して「ここでこうなるから面白いんですね。」などと言って覚えようとする弟子も(多分)いない。

弟子の噺の見本は常に師匠の噺である。それは弟子が真打になろうが関係ない。また師匠もそのまた師匠の噺を常に見本にしている。その見本には決して追いつけないのを知っていながらもその技に磨きをかけていく。師匠の噺を追い抜いたと思った瞬間弟子はその成長を止めることになる。

師匠は先代から受け取ったものを弟子にそのまま伝え、弟子はそれを何がどうすごいのかよく分からないが「何となくスゴそう」というあいまいな感覚のみを頼りに学ぶ。そして学びを継続してかなりの時間を経過してからそのものの真意を理解できるようになるが、そこで修行がおしまいになるわけではない。
やっと真意を理解出来るようになっても「師匠の伝えたかったことはこういうことなのか?」「本当はもっと違うところに真意があるんじゃないか?」という自問自答を延々と続ける。なにしろ師匠は弟子に対して「正解」を教えていないのだから、弟子は正解のない幻想とも言える真理を追い求めなければならなくそのため学びを終えることが出来ない。
しかし学びを終えることがないからこそ成長を続けることができる。

師匠は自分もその真理を理解したわけでもなければ習得もしていないが、先代から受け取った伝統をとりあえずそのまま弟子に伝える。それだけである。ここで伝えるのは決して技とか知識といった数量的なものではない。弟子も師匠に対して噺を面白くする技を教えて下さいなどとは言ってはならない。弟子が師匠から学ぶべきものはそういった数量的なものではない。
弟子は師匠の噺がどれほど面白いのか今はそれを伺い知ることが出来ないが、修行あるいは学びを積み重ねることによって自分の主体を変化・構築し、そのことによってなぜ学ぶのかを徐々に理解することになる。
そのような弟子に対して師匠は先代から受け継いだ噺をそのまま話すことでしかその目的を達成させることが出来ない。

ただ伝統(別に伝統じゃなくてもいいが。)をそのまま受け渡すということだけでもなんと有意なことだろうと思う。

29.9.09

茨城岩崎邸研修2009

毎年恒例の茨城での岩崎邸研修に今年も参加してきました。
今年からOBが主体となって企画されました。現役の学生の参加はなく、OB6名と小澤先生という例年に比べ少し寂しい感じではありましたが、今年も楽しく仕事させて頂きました。



参加するたびに驚かされるのは70歳を越えているとは到底思われない岩崎先生のバイタリティ。
岩崎邸は着工して8年(?)程経過し母屋はほぼ完成しましたが、これでも全体の30%程度。まだ客室棟、工房、露天風呂、駐車場、門などが残されおり、全て完成するまであと10年以上かかるそうです。
20年以上かけて茨城の都市部から離れた山の中で自邸をセルフビルドで建てているということから厭世的なイメージを持つかもしれないが、岩崎先生は積極的に外の社会とコンタクトをとっている。外部に対して開放的である。自分も秋田の農村の出身であるから実感として分かるが、田舎というのはひどく閉鎖的なコミュニティである。田舎というのは近所付き合いが盛んであるというイメージから開放的な印象を持つかもしれない。確かに近所付き合いは都市部に比べれば今なお盛んである。醤油がないからお隣さんの家に借りるということもある。しかしその開放性はごく限られた枠組みの中に限定される。その枠組みから外れるものに対しては排他的であると言ってよい。未知に対する許容量が極めて少ないように思う。
岩崎先生は閉鎖的なコミュニティに身を置きながら外部(その射程は近所付き合いに留まらずとても広く、世界にまで及ぶ)とコンタクトを取ることで開放性を維持している。閉鎖性と開放性の間を行ったり来たりしているこのダイナミクスこそが岩崎先生のバイタリティの要因なのかもしれない。

15.9.09

"Detachment"からの脱却

“「デタッチメント」から「コミットメント」へ”
これは村上春樹の作風の移り変わりを表現するキーワードらしい。かといって村上春樹について書こうということではない。そんなに村上作品を読んだわけでもないし。でも「東京奇譚集」(新潮文庫)「レキシントンの幽霊」(文春文庫)に収録されている「トニー滝谷」はおもしろかった。特に「トニー滝谷」は市川準監督によって映画化されたものも含めオススメです。

自分はこれまで周囲に対して「デタッチメント」か「コミットメント」どちらかと言われれば完全に前者であった。現在もそうである。しかし最近そんな態度に今更ながら限界を感じ始めている。本当は随分前から気づいていたのかも知れないが、無意識のうちに「デタッチメント」であることを良しとしていた。


自分が「デタッチメント」である理由はいくつか挙げられる。
ひとつは単純に臆病なだけ。人の影響を受け易い性質であるだけに、誰かと関わりを持つことで自分の考えが崩されていくことが恐いのだと思う。

もうひとつは誰にも「迷惑をかけたくない」という思い。こう書くと響きはいいが実はそうでない。誰にも「迷惑をかけられたくない」という宣言として「迷惑をかけない」という態度をとっているだけなのだ。そもそも「誰にも迷惑をかけない」というのは原理的にありえない。レヴィ=ストロースの「贈与」の考えによるならば、「迷惑をかけたり、かけられたりすること」自体がコミュニケーションの基本となるはずである。

それから誰かに何かを投げ掛けても「どうせ分からねぇだろ」という非常に傲慢な態度。これは今もある。おそらく自分は多くの知識・情報をほぼ盲目的に受け入れ、それらをうまく消化できないまま抱え込んでいる状態にあり、そのために言いたいこと伝えたいことの輪郭を定めることが出来ずにいる。そしてその曖昧模糊とした状態を晒すのを拒否している。自分の言いたいことが言えないのであるならば言わなくてもいいと思っている。しかし一方で情報量だけはそれなりにあるつもりでいるので人を見下したような傲慢な態度になる。本来享受した情報なり知識は一度アウトプットをして咀嚼しないと消化出来ないはずなのだがそれをしてこなかった。たぶん意識的に。

しかし「デタッチメント」であることには限界がある。前回も書いたように自分らしさ或いは「私」の核となるものは他者との対話の中で作り上げられていくものであるとするならば、周囲とコミットしていかない限り今の状態に留まることになる。それは嫌だ。

11.9.09

行って来ました。

先週、越後妻有アートトリエンナーレに行ってきました。 期間中に見に行ったのは今回が初。
多少急ぎ足で見たので、幾分疲れましたが面白い作品もいくつか見られたし、うまい飯も食えたので十分満足。


「森のひとかけら」福屋粧子


「もうひとつの特異点」Antony Gormley
「Wasted」向井山朋子

「蔓蔓」高橋治希

何でもそうだけど、カメラで撮って写真に残してみてもやっぱり実際の体験には敵わない。 被写体だけじゃなくてその場の空気や自分の心情など決して可視化できないもの、そういったものを含めた“一回性の体験”を味わうことこそが貴重なのだと、改めて気づかされた。

4.9.09

訳の分からないもの

訳の分からないものになりたいと思う。別に奇人・変人とかそういうのではなくて。

自分の現在持っているものさしでは決して計量することの出来ないものが、多くあるはずである。それこそ無限に。
しかし今それは見ることすら出来ないし、仮に見えたとしてもそれが自分にとって有益をもたらすものなのか分からない。自分のものさしで測り得るものではないから。

なにかと理由を付けてそのものの有益性を語ろうとする時点でそれは現在自分の持っているものさしで測ってしまっている。そのような解釈は比較的ストレスなく行われ快適であるが、そこで選択した一見中立的で普遍性をもつと思われることも、すでに予断や偏見が多く含まれている。そういった意味では真に中立的で客観的なものはない。我々の行う解釈は本来複数の読解可能性を有しているもののうちのたったひとつを自動的に選択してしまっている。そのことを絶えず意識しなければならない。さもなければ解釈の貧困化のプロセスを歩むことになる。

訳の分からないものをどこにも着地させず宙ぶらりんのまましておくことがあってもいいと思う。
そういう訳の分からないものは事後的にその理由を発見できればいいだけなのだ。

30.8.09

「自分らしさ」という幻想

多くの人、特に若者にとって「自分らしく」生きるということがひとつの大きなテーマになっていると思う。しかし己が生きるうえで大きな指針となる「自分らしさ」というものは幻想でしかないのではないか。「私」という自己はどこかの段階で自ら決定したことによって存在するものではなく、他者あるいは社会との対話の中で半ば強制的に決定されてしまうもののはずである。

自分らしさを語るときの「私」とはそもそも空っぽなのであって確固たる主体あるいは核を持って存在するのではない。その空っぽの容器の中にあらゆる経験・対話を集積させ、「私」を形成していくことになるのだろうが、そこで得られたいかなる要素でさえ核にはなりえなく、核はあくまで空っぽなのだろうと思う。(「中心は虚無がある」って何かの本に書いてあったけどなんだったかな?)

対峙する人によって態度を変化させる人のことを「裏表のある人」とか、誰に対しても愛想よく振舞う人を揶揄して「八方美人」と表現するが、程度の差こそあれ誰しも様々な顔を抱えているはずである。それこそ「裏と表」とか「八方」などのようには数え切れないくらい無数の「顔」を。

無数にあるはずの「顔」あるいは「私」のどれか一つを自ら選択してこれこそが「私」であると主張し、しがみついてしまうのではなく、。「私」の核となるものは「空っぽ」で、他者との対話の中で作り上げられている発展途上かつ常に未完成なものであるという意識をもつことが大事なのではないだろうか。

2.6.09

「異邦人」

「異邦人」(カミュ/新潮文庫)を読む。以前読もうと思って購入したものの、読まずに本棚にあったのだが、映画「殯(もがり)の森」(監督・脚本:河瀨直美/出演:うだしげき・尾野真千子)を見て本棚から出した。

主人公ムルソーは意味のないことは喋らない無口な性格の青年。何か言葉を発しようとしてもその言葉によって特に何か起こるわけでもない意味のなさぬことだと感じると口を閉じてしまう。
彼は母が死んでも涙を流すこともなく、その翌日には海水浴に行き、女と関係を結び映画を見て笑い転げる。
あるとき彼は友人レエモンの女性問題に巻き込まれ一人のアラビア人を銃で殺してしまう。
逮捕されたムルソーは母の死の翌日の行動を理由に検事から冷酷で非人道的な人間だと判断される。しかしムルソーは証言の内容にウソがないことを理由に反論は全くしない。唯一動機について「太陽のせい」とだけ答える。
結果ムルソーは斬首刑を言い渡される。
その後残された時間が僅かとなったムルソーは、面会に来て神を信じることの大切さを説く司祭を怒鳴り散らし追い出してしまう。
留置所の中でムルソーは今もなお幸福だと悟り、そして処刑の日に大勢の見物人が集まり憎悪の叫びをあげることを最後の望みとする。

しかしムルソーは決して狂気に満ちた男ではない。冷静な行動を心掛け、雲の流れに思いを寄せ、仕事のお昼休みを楽しみにする男である。そんなムルソーに対して検事は死刑を求刑する際こう述べる。
「私はこの男に対して死刑を求刑します。そして死刑を要求してもさっぱりした気持ちです。思うに、在職もすでに長く、その間、幾たびか死刑を要求しましたが、今日ほど、この苦痛な義務が、一つの至上の・神聖な戒律の意識と、非人間的なもの以外、何一つ読みとれない一人の男を前にして私の感ずる恐怖とによって、償われ、釣合いがとれ、光をうけるように感じたことは、かつてないことです」
このセリフには恐怖に似た違和感を覚えた。検事は己に全く否がなく、主張には矛盾がなく正義に満ちていることを確信し、死刑を求刑することで「さっぱりした気持ち」になり、さらには「光をうけるように感じ」ている。
この検事は過去、他の事件でやむを得ず死刑を求刑し苦痛を受けることもあったようだが、少なくともムルソーに対してはそのような苦痛を感じてはいない。つまり人に死を与える決断は「積極的」に選択されるべき状況も存在するということらしい。

自分が純真無垢であることを疑わず、「純真無垢な正義」を背に実行する行為そのものが残酷で非人間的な「忌むべき邪悪なるもの」であることは吟味しない。それは邪悪なるもの同様あるいはそれ以上に恐ろしいことのように思う。
「純真無垢な正義」という選択に際しても、自分自身が「忌むべき邪悪なるもの」ではないかという可能性を思慮し、ためらう感覚があって当然なのではないか。

6.5.09

長野・松本

連休中長野に行ってきました。


内藤廣設計による安曇野ちひろ美術館。


有名な黒部ダム。


善光寺。GW、しかも七年に一度の御開帳ということで朝早くからかなりの人出で前立本尊参拝・お戒壇めぐりあわせて2時間以上待った。
それでもお戒壇めぐりはかなり良かった。
機会があったらぜひ行ってみて下さい。

既視感

以前も書きましたが、自分の思考なり価値観が本当に自分のものなのか、疑わしいと思うことがよくある。

まるで自分の考えのように喋っていても「そういえば誰かがこんなこと言ってたなぁ。」とか。誰かの猿真似をしているだけなのかもしれないという感覚は常にある。もちろん無から何かを生み出すということはなく、それまでの経験なり、人からの影響はあって当然だと思うが、そのなかに自分のオリジナルと呼べるものがあるのかどうか怪しい。

そう考えていくと何かを知ることというのは積み重ねの作業というよりかは、自分の物でないものを削ぎ落としていく作業のことのようにも思える。

書きながら

書きながら考えている。

そのため主張が一貫していないということがよくある。
書くきっかけは些細なことでそこからどういう風に「オチ」をつけるかは決まっていないことが多い。普通「オチ」が決まっていて、その「オチ」の前振りとして全体を構成する言葉を紡いでいくものなのだと思う。違うかもしれないけど。

しかし自分は何かひとつ言葉を書いたら、その後何を言いたいのか分からなくなってしまうことがしばしばある。漠然としたニュアンスはあるのだが、それを言語化できない。そこでそこまで書いたことを眺めてみながら、「もしかしたら自分が言いたいことはこういうことかもしれないなぁ。」などと思いつつ、また少し書いてみる。

その都度、わずかな思考の決断、価値の決定をしながら書いていく。この繰り返しが基本。だから申し訳ないけど自分が何を最終的に言いたいのか、そんなことを聞かれても正直分からない。

24.4.09

目的と方法について

何のために学ぶのか?
何かの目的のためだけに学ぶという行為は危ういことかもしれない。何か達成すべき目的のために一直線に進むっていう姿勢それ自体は尊ぶべきことだとは思うが、そのことについて少し懐疑的になってみる必要がある。

そもそも自分はモノを知ることつまり学ぶことに「目的」なんてものはあるのか、とすら思ってしまう。
それは別に「学ぶこと自体が楽しいんだから、そこに目的なんか求めるのはナンセンスで、そんなものはなくてもいい。」というようなことではない。
もちろん学ぶこと自体楽しいというのはあるけども。
ただ何をするにせよ目的ってそんな単純なものではないし、仮に何か明確な目的があったとしても、それは決して不動のものではなく常に揺れ動く不安定なものだろうと思う。

例えば何か目的があったとする。「お金をたくさん稼ぐ」とか「幸せになるため」とか「自己実現のため」とかなんでもいい。その設定された目的を達成するために人それぞれ様々な方法を講じる。
そこでふと、じゃあ「お金を稼ぐ」「幸せになる」「自分らしく生きる」ことの目的は何なのか?という禅問答のような一段次数の高い疑問が出てくる。

引用になってしまうが、下の文の「身体」を「方法」、「意識」を「目的」と読み替えると分かりやすいかもしれない。

私たちが「身体」と呼んでいるものや「意識」と呼んでいるものは、その無限のグラデーションから恣意的に切り取られた、たかだか一こまの「切片」に過ぎない。「私の身体は頭がいい」(内田樹/文春文庫)

「方法」も「目的」もある大きな流れの中のあるひとつの断片を選択した結果に過ぎない。それ以外にも様々な選択肢がある。
ではなぜ自分はその「方法」と「目的」を選択したのか、それ以外をなぜ選択しなかったのか。そのことをもっと考えてみる必要がある。

 
写真は仙台ホテル。じつは結構イイ。