近頃、落語を聴くことが多い。寄席に実際に行ったことはなく、CDを借りたりして聞いているのだがおもしろくて何度も聴いている。特に柳家小三治という噺家が好きでiTunesに入っているほとんどの落語が小三治師匠のものである。落語はテレビのお笑い番組のようなゲラゲラ笑うことは多くないが、何度も聴いて話の内容を知っていようとも思わず笑ってしまうところがある。
すごく失礼な言い方ではあるが古典落語は噺家が代々受け継いできた噺をそのまま繰り返しているに過ぎない。
間合いの取り方、登場人物の設定の仕方は演じる噺家によって変化するが噺の大筋は変わらない。しかも落語には台本がないため噺家はとりあえず師匠の噺をマネするしか習得の方法はない。噺を覚える段階で「ここでこの男が棟梁に対してこういう風に言うから面白いんだよ。」などと説明しながら教える師匠もいなければ、師匠に対して「ここでこうなるから面白いんですね。」などと言って覚えようとする弟子も(多分)いない。
弟子の噺の見本は常に師匠の噺である。それは弟子が真打になろうが関係ない。また師匠もそのまた師匠の噺を常に見本にしている。その見本には決して追いつけないのを知っていながらもその技に磨きをかけていく。師匠の噺を追い抜いたと思った瞬間弟子はその成長を止めることになる。
師匠は先代から受け取ったものを弟子にそのまま伝え、弟子はそれを何がどうすごいのかよく分からないが「何となくスゴそう」というあいまいな感覚のみを頼りに学ぶ。そして学びを継続してかなりの時間を経過してからそのものの真意を理解できるようになるが、そこで修行がおしまいになるわけではない。
やっと真意を理解出来るようになっても「師匠の伝えたかったことはこういうことなのか?」「本当はもっと違うところに真意があるんじゃないか?」という自問自答を延々と続ける。なにしろ師匠は弟子に対して「正解」を教えていないのだから、弟子は正解のない幻想とも言える真理を追い求めなければならなくそのため学びを終えることが出来ない。
しかし学びを終えることがないからこそ成長を続けることができる。
師匠は自分もその真理を理解したわけでもなければ習得もしていないが、先代から受け取った伝統をとりあえずそのまま弟子に伝える。それだけである。ここで伝えるのは決して技とか知識といった数量的なものではない。弟子も師匠に対して噺を面白くする技を教えて下さいなどとは言ってはならない。弟子が師匠から学ぶべきものはそういった数量的なものではない。
弟子は師匠の噺がどれほど面白いのか今はそれを伺い知ることが出来ないが、修行あるいは学びを積み重ねることによって自分の主体を変化・構築し、そのことによってなぜ学ぶのかを徐々に理解することになる。
そのような弟子に対して師匠は先代から受け継いだ噺をそのまま話すことでしかその目的を達成させることが出来ない。
ただ伝統(別に伝統じゃなくてもいいが。)をそのまま受け渡すということだけでもなんと有意なことだろうと思う。
21.10.09
29.9.09
茨城岩崎邸研修2009
毎年恒例の茨城での岩崎邸研修に今年も参加してきました。
今年からOBが主体となって企画されました。現役の学生の参加はなく、OB6名と小澤先生という例年に比べ少し寂しい感じではありましたが、今年も楽しく仕事させて頂きました。
今年からOBが主体となって企画されました。現役の学生の参加はなく、OB6名と小澤先生という例年に比べ少し寂しい感じではありましたが、今年も楽しく仕事させて頂きました。
岩崎邸は着工して8年(?)程経過し母屋はほぼ完成しましたが、これでも全体の30%程度。まだ客室棟、工房、露天風呂、駐車場、門などが残されおり、全て完成するまであと10年以上かかるそうです。
20年以上かけて茨城の都市部から離れた山の中で自邸をセルフビルドで建てているということから厭世的なイメージを持つかもしれないが、岩崎先生は積極的に外の社会とコンタクトをとっている。外部に対して開放的である。自分も秋田の農村の出身であるから実感として分かるが、田舎というのはひどく閉鎖的なコミュニティである。田舎というのは近所付き合いが盛んであるというイメージから開放的な印象を持つかもしれない。確かに近所付き合いは都市部に比べれば今なお盛んである。醤油がないからお隣さんの家に借りるということもある。しかしその開放性はごく限られた枠組みの中に限定される。その枠組みから外れるものに対しては排他的であると言ってよい。未知に対する許容量が極めて少ないように思う。
岩崎先生は閉鎖的なコミュニティに身を置きながら外部(その射程は近所付き合いに留まらずとても広く、世界にまで及ぶ)とコンタクトを取ることで開放性を維持している。閉鎖性と開放性の間を行ったり来たりしているこのダイナミクスこそが岩崎先生のバイタリティの要因なのかもしれない。
15.9.09
"Detachment"からの脱却
“「デタッチメント」から「コミットメント」へ”
これは村上春樹の作風の移り変わりを表現するキーワードらしい。かといって村上春樹について書こうということではない。そんなに村上作品を読んだわけでもないし。でも「東京奇譚集」(新潮文庫)と「レキシントンの幽霊」(文春文庫)に収録されている「トニー滝谷」はおもしろかった。特に「トニー滝谷」は市川準監督によって映画化されたものも含めオススメです。
自分はこれまで周囲に対して「デタッチメント」か「コミットメント」どちらかと言われれば完全に前者であった。現在もそうである。しかし最近そんな態度に今更ながら限界を感じ始めている。本当は随分前から気づいていたのかも知れないが、無意識のうちに「デタッチメント」であることを良しとしていた。
自分が「デタッチメント」である理由はいくつか挙げられる。
ひとつは単純に臆病なだけ。人の影響を受け易い性質であるだけに、誰かと関わりを持つことで自分の考えが崩されていくことが恐いのだと思う。
もうひとつは誰にも「迷惑をかけたくない」という思い。こう書くと響きはいいが実はそうでない。誰にも「迷惑をかけられたくない」という宣言として「迷惑をかけない」という態度をとっているだけなのだ。そもそも「誰にも迷惑をかけない」というのは原理的にありえない。レヴィ=ストロースの「贈与」の考えによるならば、「迷惑をかけたり、かけられたりすること」自体がコミュニケーションの基本となるはずである。
それから誰かに何かを投げ掛けても「どうせ分からねぇだろ」という非常に傲慢な態度。これは今もある。おそらく自分は多くの知識・情報をほぼ盲目的に受け入れ、それらをうまく消化できないまま抱え込んでいる状態にあり、そのために言いたいこと伝えたいことの輪郭を定めることが出来ずにいる。そしてその曖昧模糊とした状態を晒すのを拒否している。自分の言いたいことが言えないのであるならば言わなくてもいいと思っている。しかし一方で情報量だけはそれなりにあるつもりでいるので人を見下したような傲慢な態度になる。本来享受した情報なり知識は一度アウトプットをして咀嚼しないと消化出来ないはずなのだがそれをしてこなかった。たぶん意識的に。
しかし「デタッチメント」であることには限界がある。前回も書いたように自分らしさ或いは「私」の核となるものは他者との対話の中で作り上げられていくものであるとするならば、周囲とコミットしていかない限り今の状態に留まることになる。それは嫌だ。
これは村上春樹の作風の移り変わりを表現するキーワードらしい。かといって村上春樹について書こうということではない。そんなに村上作品を読んだわけでもないし。でも「東京奇譚集」(新潮文庫)と「レキシントンの幽霊」(文春文庫)に収録されている「トニー滝谷」はおもしろかった。特に「トニー滝谷」は市川準監督によって映画化されたものも含めオススメです。
自分はこれまで周囲に対して「デタッチメント」か「コミットメント」どちらかと言われれば完全に前者であった。現在もそうである。しかし最近そんな態度に今更ながら限界を感じ始めている。本当は随分前から気づいていたのかも知れないが、無意識のうちに「デタッチメント」であることを良しとしていた。
自分が「デタッチメント」である理由はいくつか挙げられる。
ひとつは単純に臆病なだけ。人の影響を受け易い性質であるだけに、誰かと関わりを持つことで自分の考えが崩されていくことが恐いのだと思う。
もうひとつは誰にも「迷惑をかけたくない」という思い。こう書くと響きはいいが実はそうでない。誰にも「迷惑をかけられたくない」という宣言として「迷惑をかけない」という態度をとっているだけなのだ。そもそも「誰にも迷惑をかけない」というのは原理的にありえない。レヴィ=ストロースの「贈与」の考えによるならば、「迷惑をかけたり、かけられたりすること」自体がコミュニケーションの基本となるはずである。
それから誰かに何かを投げ掛けても「どうせ分からねぇだろ」という非常に傲慢な態度。これは今もある。おそらく自分は多くの知識・情報をほぼ盲目的に受け入れ、それらをうまく消化できないまま抱え込んでいる状態にあり、そのために言いたいこと伝えたいことの輪郭を定めることが出来ずにいる。そしてその曖昧模糊とした状態を晒すのを拒否している。自分の言いたいことが言えないのであるならば言わなくてもいいと思っている。しかし一方で情報量だけはそれなりにあるつもりでいるので人を見下したような傲慢な態度になる。本来享受した情報なり知識は一度アウトプットをして咀嚼しないと消化出来ないはずなのだがそれをしてこなかった。たぶん意識的に。
しかし「デタッチメント」であることには限界がある。前回も書いたように自分らしさ或いは「私」の核となるものは他者との対話の中で作り上げられていくものであるとするならば、周囲とコミットしていかない限り今の状態に留まることになる。それは嫌だ。
11.9.09
行って来ました。
4.9.09
訳の分からないもの
訳の分からないものになりたいと思う。別に奇人・変人とかそういうのではなくて。
自分の現在持っているものさしでは決して計量することの出来ないものが、多くあるはずである。それこそ無限に。
しかし今それは見ることすら出来ないし、仮に見えたとしてもそれが自分にとって有益をもたらすものなのか分からない。自分のものさしで測り得るものではないから。
なにかと理由を付けてそのものの有益性を語ろうとする時点でそれは現在自分の持っているものさしで測ってしまっている。そのような解釈は比較的ストレスなく行われ快適であるが、そこで選択した一見中立的で普遍性をもつと思われることも、すでに予断や偏見が多く含まれている。そういった意味では真に中立的で客観的なものはない。我々の行う解釈は本来複数の読解可能性を有しているもののうちのたったひとつを自動的に選択してしまっている。そのことを絶えず意識しなければならない。さもなければ解釈の貧困化のプロセスを歩むことになる。
訳の分からないものをどこにも着地させず宙ぶらりんのまましておくことがあってもいいと思う。
そういう訳の分からないものは事後的にその理由を発見できればいいだけなのだ。
自分の現在持っているものさしでは決して計量することの出来ないものが、多くあるはずである。それこそ無限に。
しかし今それは見ることすら出来ないし、仮に見えたとしてもそれが自分にとって有益をもたらすものなのか分からない。自分のものさしで測り得るものではないから。
なにかと理由を付けてそのものの有益性を語ろうとする時点でそれは現在自分の持っているものさしで測ってしまっている。そのような解釈は比較的ストレスなく行われ快適であるが、そこで選択した一見中立的で普遍性をもつと思われることも、すでに予断や偏見が多く含まれている。そういった意味では真に中立的で客観的なものはない。我々の行う解釈は本来複数の読解可能性を有しているもののうちのたったひとつを自動的に選択してしまっている。そのことを絶えず意識しなければならない。さもなければ解釈の貧困化のプロセスを歩むことになる。
訳の分からないものをどこにも着地させず宙ぶらりんのまましておくことがあってもいいと思う。
そういう訳の分からないものは事後的にその理由を発見できればいいだけなのだ。
30.8.09
「自分らしさ」という幻想
多くの人、特に若者にとって「自分らしく」生きるということがひとつの大きなテーマになっていると思う。しかし己が生きるうえで大きな指針となる「自分らしさ」というものは幻想でしかないのではないか。「私」という自己はどこかの段階で自ら決定したことによって存在するものではなく、他者あるいは社会との対話の中で半ば強制的に決定されてしまうもののはずである。
自分らしさを語るときの「私」とはそもそも空っぽなのであって確固たる主体あるいは核を持って存在するのではない。その空っぽの容器の中にあらゆる経験・対話を集積させ、「私」を形成していくことになるのだろうが、そこで得られたいかなる要素でさえ核にはなりえなく、核はあくまで空っぽなのだろうと思う。(「中心は虚無がある」って何かの本に書いてあったけどなんだったかな?)
対峙する人によって態度を変化させる人のことを「裏表のある人」とか、誰に対しても愛想よく振舞う人を揶揄して「八方美人」と表現するが、程度の差こそあれ誰しも様々な顔を抱えているはずである。それこそ「裏と表」とか「八方」などのようには数え切れないくらい無数の「顔」を。
無数にあるはずの「顔」あるいは「私」のどれか一つを自ら選択してこれこそが「私」であると主張し、しがみついてしまうのではなく、。「私」の核となるものは「空っぽ」で、他者との対話の中で作り上げられている発展途上かつ常に未完成なものであるという意識をもつことが大事なのではないだろうか。
自分らしさを語るときの「私」とはそもそも空っぽなのであって確固たる主体あるいは核を持って存在するのではない。その空っぽの容器の中にあらゆる経験・対話を集積させ、「私」を形成していくことになるのだろうが、そこで得られたいかなる要素でさえ核にはなりえなく、核はあくまで空っぽなのだろうと思う。(「中心は虚無がある」って何かの本に書いてあったけどなんだったかな?)
対峙する人によって態度を変化させる人のことを「裏表のある人」とか、誰に対しても愛想よく振舞う人を揶揄して「八方美人」と表現するが、程度の差こそあれ誰しも様々な顔を抱えているはずである。それこそ「裏と表」とか「八方」などのようには数え切れないくらい無数の「顔」を。
無数にあるはずの「顔」あるいは「私」のどれか一つを自ら選択してこれこそが「私」であると主張し、しがみついてしまうのではなく、。「私」の核となるものは「空っぽ」で、他者との対話の中で作り上げられている発展途上かつ常に未完成なものであるという意識をもつことが大事なのではないだろうか。
2.6.09
「異邦人」
「異邦人」(カミュ/新潮文庫)を読む。以前読もうと思って購入したものの、読まずに本棚にあったのだが、映画「殯(もがり)の森」(監督・脚本:河瀨直美/出演:うだしげき・尾野真千子)を見て本棚から出した。
主人公ムルソーは意味のないことは喋らない無口な性格の青年。何か言葉を発しようとしてもその言葉によって特に何か起こるわけでもない意味のなさぬことだと感じると口を閉じてしまう。
彼は母が死んでも涙を流すこともなく、その翌日には海水浴に行き、女と関係を結び映画を見て笑い転げる。
あるとき彼は友人レエモンの女性問題に巻き込まれ一人のアラビア人を銃で殺してしまう。
逮捕されたムルソーは母の死の翌日の行動を理由に検事から冷酷で非人道的な人間だと判断される。しかしムルソーは証言の内容にウソがないことを理由に反論は全くしない。唯一動機について「太陽のせい」とだけ答える。
結果ムルソーは斬首刑を言い渡される。
その後残された時間が僅かとなったムルソーは、面会に来て神を信じることの大切さを説く司祭を怒鳴り散らし追い出してしまう。
留置所の中でムルソーは今もなお幸福だと悟り、そして処刑の日に大勢の見物人が集まり憎悪の叫びをあげることを最後の望みとする。
しかしムルソーは決して狂気に満ちた男ではない。冷静な行動を心掛け、雲の流れに思いを寄せ、仕事のお昼休みを楽しみにする男である。そんなムルソーに対して検事は死刑を求刑する際こう述べる。
この検事は過去、他の事件でやむを得ず死刑を求刑し苦痛を受けることもあったようだが、少なくともムルソーに対してはそのような苦痛を感じてはいない。つまり人に死を与える決断は「積極的」に選択されるべき状況も存在するということらしい。
自分が純真無垢であることを疑わず、「純真無垢な正義」を背に実行する行為そのものが残酷で非人間的な「忌むべき邪悪なるもの」であることは吟味しない。それは邪悪なるもの同様あるいはそれ以上に恐ろしいことのように思う。
「純真無垢な正義」という選択に際しても、自分自身が「忌むべき邪悪なるもの」ではないかという可能性を思慮し、ためらう感覚があって当然なのではないか。
主人公ムルソーは意味のないことは喋らない無口な性格の青年。何か言葉を発しようとしてもその言葉によって特に何か起こるわけでもない意味のなさぬことだと感じると口を閉じてしまう。
彼は母が死んでも涙を流すこともなく、その翌日には海水浴に行き、女と関係を結び映画を見て笑い転げる。
あるとき彼は友人レエモンの女性問題に巻き込まれ一人のアラビア人を銃で殺してしまう。
逮捕されたムルソーは母の死の翌日の行動を理由に検事から冷酷で非人道的な人間だと判断される。しかしムルソーは証言の内容にウソがないことを理由に反論は全くしない。唯一動機について「太陽のせい」とだけ答える。
結果ムルソーは斬首刑を言い渡される。
その後残された時間が僅かとなったムルソーは、面会に来て神を信じることの大切さを説く司祭を怒鳴り散らし追い出してしまう。
留置所の中でムルソーは今もなお幸福だと悟り、そして処刑の日に大勢の見物人が集まり憎悪の叫びをあげることを最後の望みとする。
しかしムルソーは決して狂気に満ちた男ではない。冷静な行動を心掛け、雲の流れに思いを寄せ、仕事のお昼休みを楽しみにする男である。そんなムルソーに対して検事は死刑を求刑する際こう述べる。
「私はこの男に対して死刑を求刑します。そして死刑を要求してもさっぱりした気持ちです。思うに、在職もすでに長く、その間、幾たびか死刑を要求しましたが、今日ほど、この苦痛な義務が、一つの至上の・神聖な戒律の意識と、非人間的なもの以外、何一つ読みとれない一人の男を前にして私の感ずる恐怖とによって、償われ、釣合いがとれ、光をうけるように感じたことは、かつてないことです」このセリフには恐怖に似た違和感を覚えた。検事は己に全く否がなく、主張には矛盾がなく正義に満ちていることを確信し、死刑を求刑することで「さっぱりした気持ち」になり、さらには「光をうけるように感じ」ている。
この検事は過去、他の事件でやむを得ず死刑を求刑し苦痛を受けることもあったようだが、少なくともムルソーに対してはそのような苦痛を感じてはいない。つまり人に死を与える決断は「積極的」に選択されるべき状況も存在するということらしい。
自分が純真無垢であることを疑わず、「純真無垢な正義」を背に実行する行為そのものが残酷で非人間的な「忌むべき邪悪なるもの」であることは吟味しない。それは邪悪なるもの同様あるいはそれ以上に恐ろしいことのように思う。
「純真無垢な正義」という選択に際しても、自分自身が「忌むべき邪悪なるもの」ではないかという可能性を思慮し、ためらう感覚があって当然なのではないか。
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