7.3.13
大人の条件
18.2.13
As a passer
17.1.11
解釈された意味
3.1.11
2011年
暇だし新年ということで今年の目標を書いてみようと思う。「暇だからまあ書いてみるか」といった目標にどれだけ意味があるかは分からないが・・・。
元来自分は文型で懐古的人間なのでデジタルのように0か1を組み合わせてその関係であらゆる物事を理解していこうという考え方にはなかなか馴染めない。それが合理的でとても便利で様々な領域の発展に必要不可欠なものであることの理屈は分かる(たぶん)。だがその仕組みがどうも信用できない。なんとなく。
デジタルの領域では削ぎ落とされてしまった0と1の中間にある無限のグラデーションをもっと大切にしたほうがいいように思う。そのグラデーションの中には0と1を成立させるための幾つも因子が存在するが同時にその成立を妨げようとする協調性のない因子も存在する。しかしそんなへそ曲がりな因子が存在した方が0と1の関係が安定的に保たれる。矛盾する話しだけど。協調性のない因子が少しでも存在することで、その組織内で支配的に振舞う因子にとって対処できないような想定外のトラブルが発生しても、その協調性のない因子が対処できれば何とかシステムは生き延びることが出来る。ある程度の多様性が残されている方がシステムとして生き延びる確立が格段にあがる。不安定要素があるからこそシステム全体が安定的に保たれるというとなんとも妙だが、その矛盾を矛盾なく成立する世界がアナログの領域には残されていると思う。
自らの思いを些細なニュアンスも含め少しでも相手に理解してもらおう思うなら、表現をもっと細かく割っていく必要があるとここ数年来思っていることなので、今年も引き続き語彙を増やすよう意識して生活したい。
こんなことを書くと「先に書いた二つの目標はなんだ、出鱈目か!」「この天邪鬼!またひねくれた事を書きやがって。」と思うかもしれないが、そうじゃありません。
何故具体的目標を立てないかというと、数値的に計量可能な目標やロールモデルを迂闊に持ってしまうと、それしか見えずそれ以外のことを考えなくなってしまうように思うのともうひとつに、今自分が当然だとしているあらゆる思考、価値観というのは「オルタナティヴ」であるということから。現在支配的な思考・価値観はたまたまある歴史的・地理的な条件によって成立しているものに過ぎないというように考えると、そんなちょっとした入力で激変してしまうような価値観を不動なものとして後生大事にしておいては非常に危ういし、それ以上を望むこと叶わないように思う。
25.12.10
「今」に立つ
最近の課題は「『今』に立つ」ということ。これは心の在り方としてではなく、あくまで身体運用上の課題であると自分では思っている。
「今」というのは直線的に流れる時間のある一点、ある瞬間を示すものではない。仮に「今」という時間がある点としてあるならば、ひとつの「今」の後には直ちに次の「今」という点が浮かび上がってくる。そのように無数の瞬間的点から成り立っている「今」は一見連続しているが、それら点と点の間には無数の「切れ目」が存在する。しかし我々は普段「時間」というものを「切れ目」のない連続的存在としてイメージすることが出来る。
であるならば「今」というのは点としてではなく、面的イメージを有するものではないだろうか。「今」というのを「いままで」と「いまから」というように過去と未来の両方向に展開可能な存在としてイメージしてみるとき、時間の連続性がより明確に浮かび上がってくる。「今」は未来と過去の両極に手を伸ばしながら我々のもとにとどまっている。未来と過去の間に「今」があり、その間としての「今」から未来と過去が生まれる。
では「今」に立つというのは具体的にどういうことか。
小学校のとき柔道を習っていたが、相手を投げるとき投げの動作に入る直前に「この背負い投げは決まるな」という感覚があり、そして「投げ終わった後の姿」が頭にイメージとして浮かぶことがたまに(ホントにたまに)あった。そういった感覚のときは本当に綺麗に技が決まった(ように思う)。逆に投げられるときも同じような感覚があった。
それはそれまで型稽古を繰り返して得た過去の「相手を投げるイメージ」をそっくりそのまま未来に投影し、そのイメージを時間的に先取りしトレースするという複雑面倒な手順を時間的にはほんの一瞬の間に行ったということではないか。
過去に積み上げた経験から未来を創り出し、そのイメージに身を投じるべく動く、ということが私にとっての「『今』に立つ」ということです。
21.12.10
知ったかぶりの効能
本当は知らないことでも、今持ちうる知識をもってさも知っているかのように語ることは思いのほか重要のように思う。
僕という人間は結局のところ、どこかよそでつくられたものでしかないのだ。そしてすべてはよそから来て、またよそに去っていくのだ。僕はぼくという人間のただの通り道に過ぎないのだ。(ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編 村上春樹著 新潮社版)
情理を尽くして語られた言葉の中には、当初自分が思いもしていなかった言葉が浮かび「あんなこと喋るつもりはなかったんだけど、でも案外面白いことを発見できたんじゃないか」というように事後的に自らが言いたかったことに気づく。自分が「話し手」でありながら自らが発する声を聞く「聞き手」であるということ。そのような循環の中で知性は活発になっていくものだと思う。
19.12.10
孤独について
自分は孤独だと思う。そんなこと人が聞けば笑うだろうし、そんなのは思い違いだと言うかもしれない。しかし孤独とは友人の多寡や配偶者の有無など客観的指標でもって形式化できるものではないし、他人と比較してどうこうという問題ではない。孤独とはあくまで“自称”で誰かの承認を必要としない。当人が孤独であると思えば孤独なのである。
「言わなきゃ分からない」と主張する人がいるがそういった人々に「言えば分かるのか?」と問いたい。言葉や会話を介してのコミュニケーションは確かに重要なことではあるが、言葉もコミュニケーションの手段のひとつに過ぎない。些細な表情や仕草、息遣いやさらには身に纏うオーラなどを読みとることで成立する沈黙のコミュニケーションだってあるのだ。それを考慮せず言語コミュニケーションの重要性ばかりを強調する人のコミュニケーション能力は疑わしい。
自己とはその中に他者を抱えるということによって成立する。自分の中に他者の目を持ち込むことによってはじめて思考し自我を得ることが出来るのだ。しかしその「自分」という他者が考えていることも理解できず、言語化することすら儘ならず結果「自分」自身からも孤独になってしまう。
だからといって絶望するのではない。分からないながらもここにこうして書き記すように何とか「他者」と交わることは出来るのだ。分かってもらえないということの向こう側に分かるということがあるのだ。その難儀な作業を行うことが出来るのというのが「人間性」のひとつであるように思う。