21.10.09

A Passer

近頃、落語を聴くことが多い。寄席に実際に行ったことはなく、CDを借りたりして聞いているのだがおもしろくて何度も聴いている。特に柳家小三治という噺家が好きでiTunesに入っているほとんどの落語が小三治師匠のものである。落語はテレビのお笑い番組のようなゲラゲラ笑うことは多くないが、何度も聴いて話の内容を知っていようとも思わず笑ってしまうところがある。

すごく失礼な言い方ではあるが古典落語は噺家が代々受け継いできた噺をそのまま繰り返しているに過ぎない。
間合いの取り方、登場人物の設定の仕方は演じる噺家によって変化するが噺の大筋は変わらない。しかも落語には台本がないため噺家はとりあえず師匠の噺をマネするしか習得の方法はない。噺を覚える段階で「ここでこの男が棟梁に対してこういう風に言うから面白いんだよ。」などと説明しながら教える師匠もいなければ、師匠に対して「ここでこうなるから面白いんですね。」などと言って覚えようとする弟子も(多分)いない。

弟子の噺の見本は常に師匠の噺である。それは弟子が真打になろうが関係ない。また師匠もそのまた師匠の噺を常に見本にしている。その見本には決して追いつけないのを知っていながらもその技に磨きをかけていく。師匠の噺を追い抜いたと思った瞬間弟子はその成長を止めることになる。

師匠は先代から受け取ったものを弟子にそのまま伝え、弟子はそれを何がどうすごいのかよく分からないが「何となくスゴそう」というあいまいな感覚のみを頼りに学ぶ。そして学びを継続してかなりの時間を経過してからそのものの真意を理解できるようになるが、そこで修行がおしまいになるわけではない。
やっと真意を理解出来るようになっても「師匠の伝えたかったことはこういうことなのか?」「本当はもっと違うところに真意があるんじゃないか?」という自問自答を延々と続ける。なにしろ師匠は弟子に対して「正解」を教えていないのだから、弟子は正解のない幻想とも言える真理を追い求めなければならなくそのため学びを終えることが出来ない。
しかし学びを終えることがないからこそ成長を続けることができる。

師匠は自分もその真理を理解したわけでもなければ習得もしていないが、先代から受け取った伝統をとりあえずそのまま弟子に伝える。それだけである。ここで伝えるのは決して技とか知識といった数量的なものではない。弟子も師匠に対して噺を面白くする技を教えて下さいなどとは言ってはならない。弟子が師匠から学ぶべきものはそういった数量的なものではない。
弟子は師匠の噺がどれほど面白いのか今はそれを伺い知ることが出来ないが、修行あるいは学びを積み重ねることによって自分の主体を変化・構築し、そのことによってなぜ学ぶのかを徐々に理解することになる。
そのような弟子に対して師匠は先代から受け継いだ噺をそのまま話すことでしかその目的を達成させることが出来ない。

ただ伝統(別に伝統じゃなくてもいいが。)をそのまま受け渡すということだけでもなんと有意なことだろうと思う。