30.9.08

デジタルとアナログ

高校生のとき読んだ英語の教科書に、インターネットは「直線的」であるのに対して読書は「遠回り」である、というような内容のコラムがあったのを覚えている。

英語で書いてあって詳しくは覚えていないが、インターネットというのは何かキーワードでもって検索すればすぐさまそのキーワードを含むページを提示してくれるが、本の場合目的の事項を見つけるまでに目的とは関係のない箇所も見なくてはならなく、時間もかかるから「遠回り」であるということであった。

他の人と比べたことはないが、自分は本を読むのが遅い。それでも多くの本を読もうと「速読」に関する本を何冊か見て、実際に挑戦しようとしたが出来ないでいる。速読は本に書かれていることで自分が必要としているのは2割程度だから、何をその本から得ようとしているのか目的意識を持てば一字一句読む必要はなく、早く読むほうがかえって全体の構造をよく理解できるということらしい。

速読はどちらかというと「直線的」な行為だ。僕は目的を持って本を読んでいるつもりだが、目的から外れた意外な発見の中にこそ何か自分の思考、価値観を広げてくれる可能性を感じること出来ているような気がして楽しい。それが「遠回り」のいい所だ。

僕はこの違いをデジタルとアナログの時計に例えることがあるのだけど、デジタルの時計は種類にもよるが、0:00から0:01という具合に時間の経過を知らせてくれるけど、その間にある小さな変化は見えない。対してアナログ時計の場合、針の軌跡にかすかな変化が見て取れる。

0か1に分けてしまうのではなく、その間のかすかな変化に何か大事なことあるような気がしている。

27.9.08

言葉にするということ

 感じたことを表現するのに適当な「言葉」が見つからないことが多い。当然のことだが「嬉しい」といっても、そこに含まれる感情、思いは人によって異なるし、同じ人物であっても状況によって異なってくる。

 それならと無理に感じたことを言語化する必要はないのではないかと思い始めていた。「言葉」にすることで複雑で変化に富むはずの感情、思考が限定、固定されてしまうのは本意ではないからだ。そのせいか自分のノートには言葉より下手糞な絵やダイアグラムのようなものが多く登場する機会が増えていた。

 しかし一方で言語化することで見えてくることもあるのではないかと最近思うようになった。漠然として掴み所のない感覚が、正確ではないかもしれないが言葉を与えることで輪郭が少しくっきりしてくる。そのことが次の段階へと思考を進めていく際の手がかりになってくれるのではないだろうか。言葉として表現したものが自分の感覚と大きくずれていたとしても修正は十分に可能だ。

言葉にするということは「私」という誰もうかがい知れないブラックボックスの中にあった感覚を外に放り出すということだ。外に出された感覚は同じ小説を読んでも読む人によってその解釈がそれぞれ違うように、人によって様々に捉えられる。その結果漠然とした感覚がより強化されることもあるだろうし、新たな感覚を生み出すきっかけになるかもしれない。

はじめます。

思うとこがあり今日からブログを始めてみました。

更新の回数はそれほど多くないかもしれないが、
考えたこと、思ったことを発信できる場になればと思います。

それではよろしく。