13.3.13

物語に身を浸す

最近AmazonYouTubeのレビューを観ていると少なからず気が滅入ってしまうことがある。
そこに書かれてある言葉は本や映画を観ての感想ではなく批評になっているのがとても多い。確かに「楽しかった」「面白かった」「つまらない」という言葉だけで本や映画を観た経験を済ますのはいかがなものかと思う。なぜ楽しかったのか?なぜ私はこれほどまでに心を動かされたのか?それを説明すべく手持ちの語彙を総動員してそれらの思いに輪郭を与えていく作業は不可欠だろうと思う。

しかしそれとそこに書かれてあるコメントらはどうも方向性が違う。書かれてあるのは物語の設定であるとかリアリティ、あるいはカメラワークの良し悪しというようにそこから一歩引いている者としての意見である。そこには物語の中で時の流れを感じ水の冷たさに震え草の匂いに嗅ぎ心躍るといったような文字通り物語に身を浸すという経験が欠落している。誰もが批評家になってしまっている。

そういう状況が際立ってくると作る側もどうにかその人らの鼻を明かしてやろうとあれこれ細工を施すようになってくる。そのように作られたものは確かに手が込んでいて感心するし楽しい。批評する側も批評のしがいがあるから話題にもなる。でもそれらは作者の創意に満ち溢れ読み手が誤解できるだけの余白が残されておらずすぐに飽きてしまう。


吉本隆明がある本でいい作家の条件として次のようなことを挙げていた。
文学作品のよさというのは意味の流れだけではなくて、何かを感じさせる、言ってみれば、文体の表現的な価値なのかもしれません。そういうものを含めて読者に感じさせるものがあったら、一流の作家といえるのではないでしょうか。読んだ全部の人が「俺だけにしかわからない」と感じるとしたら普遍性があるということになると思います”


そもそもあらゆる物語には構造があってその構造はそれほど多くはなくどの物語もその有限の物語構造を反復しているに過ぎない。我々がそれでも有史以前から飽かずに物語を求めてきたのは物語の内容などにではなく物語という装置が生存上必須のものであるからではないだろうか?それほどの力が物語にはある。だから物語に身を浸すことができないというのはとてももったいないことのように思います。

7.3.13

大人の条件

 大人になること。これは私が自らに課している命題のひとつである(なんと課題の多いこだろう)。
ではどうすれば大人になれるのか、大人の条件とはなにか。

 二十歳を超えること、自分の稼ぎで生活すること、結婚すること、子どもを養うこと。いくつか思い浮かべてみたがどれも納得できない。おそらくこのように実定的な事柄が大人の条件ではない。このような条件を満たした人でも子どものような人はいくらでも見かけることが出来る。

 そもそも大人とは一体どのような存在なのだろうか?私が思うにそれは多くの人格を自らのうちに抱え込んでおける人物のことだろうと思う。
私はまだ28歳だが自分が10歳の時に思い描いた28歳は人生とはどんなものなのかある程度見通しをたてて泰然自若と日々暮しているものだと思っていた。しかしいざ自分がその年になってみるととんでもないそんなことはなかった。多くの人は私と同じような感覚だろうとおもう。

 私がこの歳に差し掛かって実感するのは実に多くの人格が自分の内側に存在するのだなあということです。いやホントに多くの人格がいる。明るく陽気なもの、人に優しいもの、やる気に満ちているもの。そんなものの一方で私の中には妬み、疑い、恨み、憎しむ邪悪な人格も確かに存在する。そんな人格が表に出てきて悪さをすることがしばしばある。歳を重ねるごとに不要な邪念にとらわれ身動きがとれなくなる。
子どもはそうではない。子どもはそれこそ無垢に遊び自分の嫌いなことを受け入れることはしなくても良い。しかしその分大変脆い存在である。自らの世界があまりに透明度が高いために一滴の汚水が紛れ込んだだけでたちまちその世界は失われてしまう。

 我々は歳を重ねるに連れ多くの邪悪な人格を自らの内に抱え込まねばならなくなる。自分が理想とするもの、あるべき姿と思い描くものからかけ離れた邪悪な人格は我が身の骨肉に食い込む削り取ることなどできない。なんとか受け入れていくしかない。
 受け入れるというのは屈服するということではない。もちろんそれを讃えるということでもない。受け入れるというのはその来歴も知れず制御もできない邪悪なものをよく観察して脇に置いておくということである。どのような場面でそれは顔を出しどのような行動をするのかそのことについてよく観察しその行動を把握はするけども気にしない。自分にとって不都合で不快な人格と共生していくことそれが大人に求められる条件であると思う。