29.12.08

Book Review 2008


年末ということで今年読んだ本の中から面白かったものをいくつか簡単に紹介。

斜めにのびる建築(クロード・パラン著、戸田穣訳/青土社刊)
コルビュジエのドミノ理論に代表されるような水平と垂直による建築は排他的で各要素を分離してしまうものであり、そのような都市構造を推し進めて行った結果、都市は現在のような動脈硬化のような状態に陥ってしまったとし、その状態から脱出するのに必要なのは水平でも垂直でもなく「斜め」による建築および都市構成だという主張のもと「斜め」の要素の有用性を語っている。
以前「ホワイトベース」のとこでも書きましたが僕自身建物の各階をスラブによって水平に分割し、上下階への移動を垂直と水平の細かな連続である階段や一直線で結んでしまうエレベーターなんかには違和感をもっていて、各フロアがもっと「動的」につながることは出来ないかと思っているので、この本は多少強引過ぎるところもありましたが非常に刺激的でした。

表徴の帝国(ロラン・バルト著、宗左近訳/ちくま学芸文庫)
フランスの思想家でエクリチュールに関して独自の思想を築いたロラン・バルトが日本について独自の分析をしめした論考集。とにかく読みづらかった。
バルトは日本で体験した料理、歌舞伎、パチンコ、学生運動などさまざまな事に対して、感情移入することなくそれらの事象(表現体)を「記号」とみなしいる。その上でその「記号」が持つ「日常の営みの中で感じることとは別のレベルでの何か」を示そうと淡々と「記号」を分析していく。
日本人の僕にとってどこか馴染みのあるはずの事象もこの本の中では、全く別の何か
になっているような気がした。

壁(安部公房著/新潮文庫)
今年読んだ小説の中でこの作品が一番面白いと思います。
安部公房の作品は他にもいくつか読みましたがどの作品にも共通して何か「精神異常」のようなイメージがあって、現実世界から離れて自分の内側にどんどん入り込んでいってしまうような感じです。

吉本隆明の声と言葉(糸井重里 編集構成/HOBONICHIBOOKS刊)
「肉体化された論理」のなかでも紹介した本です。本というよりは吉本隆明の講演を編集してCDがメインで、その付録として吉本隆明と糸井重里の対談が載っているという内容です。
この本に関しては「肉体化された論理」を読んでみてください。

生物と無生物のあいだ(福岡伸一著/講談社現代新書)
サントリー学芸賞を受賞し、ベストセラーになった本ですので読んだ人も多くいると思います。分類としては生物学に関する本になるのだろうけど難しい数式や専門用語などは出て来ず非常に読みやすかった。
生命の定義とは「動的な平衡状態」を獲得しているものであり我々が生物と無生物を識別できるのは、そのダイナミズムを感得しているためだという自信の考えを分子生物学の観点から説明している。
このブログのなかでも「動的」というフレーズが何回か出てくると思いますが、僕自身「動的」であることは魅力的で非常に大切なことだと思っています。
「静的」な固定されてしまった思考やシステムではその射程外の予期せぬ事態が起こったとき、それはその良し悪しに関わらず排除するしかなく省みられることがない。それはつまりそれ以上の発展がないということで、ひどく脆いものだと思う。では僕にとって「動的」であるということはどういうことか。それはこれからの課題です。

気になった本があったらぜひ読んでみてください。では。

28.12.08

「闇」

「闇」というのはすごく大事だと思う。ここでいう「闇」とは分からないこと、あるいは自分の知識・思考の射程外にあって未だ何であるか認識できない箇所のことである。

私は基本的に経済性や利便性といった考え方は好きではない。
「闇」にあるものは手探りで時間をかけて獲得しなければならない。その時間というのは試行錯誤やためらいがあって、挫折もある。そういう時間を内包しているからこそ言葉や経験は尊いのだと思う。
しかし経済性や利便性といった大義名分のもとでは、闇にあるものを獲得しようとする際、そこにあって然るべき時間を悪とみなし、出来る限りその時間を省略、排除しようと振舞う。だから好きではないのだ。

「闇」というのは忌避すべきものではなく可能性として解釈すべきものだと思う。

16.12.08

既にそこにあるもの

今日、六角美瑠さんのレクチャーがありました。

テーマは「『創景』~新しい風景を創る」
前半は学生時代からの研究・作品、後半はご自身の設計された住宅をスライドで紹介しながら「風景とはそれを見る人の主体的な関係によって成立する」(表現は違いますが意味はこんな感じだったと思います。)というご自身の考えをお話していただきました。
 

写真は六角美瑠さんの「ORU」

以下はレクチャーを聞きながら考えたこと。

ほとんどの人が共有しているレディメイドの知見・価値観を当然のこととしてしか判断しないというのは如何なものかと思う。
そういった態度で判断する姿勢というのは常に受身である。受身の姿勢からは情報として知識を得ることは出来ても、何の発見も得られない。ただ単に情報がストックしていくだけである。

日常の風景・生活と一体となってしまい改めてわざわざ取り上げる価値のない、つまらないことだと思われていることでもそこに「違和感」を覚え能動的態度で接することが大切だと思う。
能動的態度で接することによって初めて思考がジャンプし特別な価値が見出される。
それはきっと楽しい。

「既にそこにあるもの」大竹伸朗/ちくま文庫

13.12.08

「ずれ」

頭で考えていることと実際に身体を使って実践することが一致しない、頭と身体が「ずれ」ているということが多い。こういう状態はきっと不健康なのだろうと思っていたが、最近その「ずれ」こそが重要なのではないかという気がしている。

頭と身体が一致している状態というのは理想的かもしれないが、「ずれ」がないため頭が身体をもしくは身体が頭を疑うことをしない、つまりそれ以上の発展がない静止した状態である。一方「ずれ」がある状態というのは常に動的である。両者の間にある「ずれ」を修正しようと外部から新たな情報を得たり、あるいは既に内にあるものを読み替えたりして絶え間なく更新している。更新された頭と身体は昨日と全く同じものを見ても昨日は見れなかったものを見ることが出来るかもしれない。

しかしそう考えると頭と身体が一致した状態を目指して「ずれ」を修正していくわけだが、実は目標としている「ずれ」のない状態というのは望むべきものではないということになる。

矛盾していて何を言っているか自分でもよく理解出来ていないがそんなようことを考えた。

8.12.08

告知 part2

以前も紹介しました勉強会A_tの第2回が行われます。
今回も宮城大学にて12月15日(月)19時から開催されます。

今回のテーマは「コンテンポラリーアートの変遷」です。
単に現代アートの流れを知るというよりは現代アートの変遷をきっかけにアートに捕らわれない幅広い議論になると思います。
ちなみに私が今回の司会役を仰せつかりました。

来られる方は事前にmailにてご連絡ください。
平日ではありますが時間があるかたはぜひ来て見てください。 
連絡先:a-wayfarer@hotmail.co.jp

29.11.08

「眼」

先日、宮城大にて行われたA_tという勉強会に参加してきました。初めての企画で白熱した議論とまではいきませんでしたが、次回に向けていいきっかけになったと思います。

僕にとってアートは新たな価値観を与えてくれるきっかけとなる情報のひとつだと思っています。そういう意味では小説やエッセイなんかも同じ情報のひとつです。
ウイルス学者の河岡義裕はウイルスを研究する理由として「別に正義感でウイルスの研究をやっているわけではありません。ただ世界が今までと全く違ったように見えるときがある。それが楽しい。」というようなことを言っていました。
僕がアートを見たり、本を読んだりするのは知識を得ることよりも、そこで得た知識を踏み台にして今までと違った見方の出来る「眼」を持ちたいからだと思う。


23.11.08

告知のお手伝い



11月27日にmyuにて中田研究室の3年生が中心になって企画したArt×Architectureという勉強会があります。全3回の予定。僕も参加予定です。


参加を希望される方は私に連絡ください。
時間がある方は来てみてください。

19.11.08

恐怖

これは僕が影響を受け易い性質だからかもしれないが、自分がつくったもの、あるいは考えたことがある共同体の中で形成されたフレームワークに過ぎず、既に誰かによって考え尽くされてしまったものではないかという恐怖がある。

何かをつくったり考えたりすることはゼロから何かを生み出すということではなく、無意識ではあるが今まで経験してきたことを参照しているため、まったくのオリジナルというのは存在しないと思う。それでもその中にどれだけ自分自身が悩んで、思考を巡らした痕跡が残せているかが気になる。



先週の土日に一年生の設計製図のTAとして東京に行ってきました。
toru,gnk,池ちゃん,sugi,泊めてくれてありがとう。

6.11.08

肉体化された論理

何日か前に「肉体化された論理でなければ役に立たない」というようなフレーズを何かの本で見た。確かにそうだと思った。何かを表現するには自分なりの論理というか、思想がないといけない。それがないと単なるスタイルになって、すぐ飽きてしまう。しかし自分自身はまだ借り物の論理だけで「肉体化された論理」は持っていない。そんなことを考えていたとき吉本隆明の言葉を思い出した。

これは僕が勝手に自分を納得させた考え方なんですが、言葉というものの根幹的な部分はなにかといったら、沈黙だと思うんです。言葉というのは、オマケです。沈黙に言葉という部分がついているようなもんだと解釈すれば、僕は納得します。

だいたい、言葉として発していなくても、口の中でむにゃむにゃ言うこともあるし、人に聞こえない言葉で言ったりやったりしてることがあります。そういう「人に言わないで発している言葉」が、人間のいちばん幹となる部分で、いちばん重要なところです。なにか喋ってるときは、それがいいにしろ悪いにしろ、もう余計なものがくっついているんです。だから、それは本当じゃないと思います。まして、そのオマケの言葉を、誰かがいいと思ったり悪いと思ったりするようなことは、そのまたもっと末のことで、それはほとんどその人には関係ないことです。

人からは沈黙に見えるけど、外に聞こえずに自分に語りかけて自分なりにやっていく。そういうことが幹であって、人から見える言葉は「その人プラスなにか違うものがくっついたもの」なんです。いいにしろ悪いにしろ、「その人」とは違います。
(吉本隆明の声と言葉/編集構成 糸井重里/HOBONICHIBOOKS刊)

「肉体化」というのは「沈黙」ということとほとんど同じかもしれない。だから言葉でああだこうだと考えているうちは本当の思考ではない。言葉に限らず、写真を撮ることや旅行することなどは思考を肉体化するための手段ではあって目的ではない。こうやって書いていることも「書く」ということで論理や思考を肉体化していく作業のように思える。

30.10.08

ホワイトベースのこと

前回の記事でホワイトベースの次の説明をお願いされたのですが、自分がいかに根拠も理由もなく空間をイメージしていたのか痛感しています。
ホワイトベースのきっかけは前回書いたように平面ではなく断面においてアルコーブを設けたら面白いんじゃないか、という単純なものです。具体的な敷地を特定しているわけではなく間口が狭く奥行きの深い、建物が密集している場所というくらいの設定です。

もともとスラブで各階を水平に分割するのには違和感があって、垂直方向ともっとダイナミックにつながっていたいというふうにいつも思っています。スロープや螺旋、スキップフロアなどの方法はあると思いますが今回は「断面アルコーブ」という方法を考えてみました。普通のアルコーブよりもアルコーブ自体の独立性は高くなっているけど、壁を設けず空気的には連続しているので空間全体の雰囲気・気配はどこにいても感じられると思います。水平的奥行きではなく、垂直(斜め)方向の奥行きを確保することで今までにない空間体験が得られるんじゃないかと期待しました。

もっと深く自分のつくったものと向き合って「強度」のある提案・説明が出来るようになったらまた書きます。


25.10.08

ホワイトベース

時間があったので模型を作ってみた。

断面においてアルコーブのある空間。

断面ワンルーム。







命名ホワイトベース。

15.10.08

重松象平レクチャー@myu

昨日、宮城大学にてOMAパートナー・重松象平さんのレクチャーが行われました。重松さんが今まで携わったプロジェクトについて、プロジェクトごとにどういったアプローチでデザインを進行させたのかを中心に、スライドを交えて約90分お話してくださった。

OMAは設計を進める際、過去の事例など膨大なデータを集めそれをもとに入念なリサーチを行う。その上でクライアントから提示されたプログラムが果たして適当かどうか見直し、新たな独自のプログラムを提案できないか検討する。そして十分なデータに裏付けされた新たなプログラムを実現するためにはどのような建築がふさわしいのか考える。このように書くと演繹的に設計が進められているようだが、そうではない。

重松さんが意識していたかかどうかわからないがレクチャーの中で何度か「強引に」とか「少し無理やり」というようなフレーズが登場した。プログラムを書き直すときや建築の形態などを決定する際、それまでのデータから離れた恣意的ともいうべき「強引な」操作が加えられる。この「強引さ」がクライアントの要求を超えて、プロジェクトに新たな可能性を生みだすことにつながる。

演繹的に考えていくとどうしても受身になってしまう。能動的に考え、思考をジャンプアップさせるにはある種の「強引さ」が必要なのだと強く感じた。しかもその「強引さ」は単なる思いつきではない。背景に膨大な量のデータと入念なリサーチがあるからこそ生まれてくるアイデアなのだ。だからこそ説得力をもつ魅力ある提案が出来るのだろう。



12.10.08

月評

新建築の最後のほうに毎回載ってる原広司さんの月評が楽しい。

作品があって批評があるというのが一般的なんだと思うけど、その関係が逆転している。個別の作品に対して批評するのではなく、あくまでも自分の論理を展開して、それぞれの作品は氏にとって、自分の論理を補足するためのものでしかない。
これを月評と呼んでいいのかわからないけど、とりあえず楽しい。機会があったら見てみてください。感想とかあったら聞かしてください。

9.10.08

独りよがり

自分が何か作ろうとするとき、その動機は「面白そう」というのが第一で社会的役割とか社会に与える影響などはほとんど考えていない。だから説明を求められても「面白そうだから」としか言いようがなく、どのように社会(というのは大げさかもしれないが)とリンクするのかがわからない。

もちろん動機として「面白そう」というのは悪いことではないと思うが、その面白さを共有してもらうための言葉やストーリーを持たないのでは単なる独りよがりになってしまう恐れがある。独りよがりではいつか行き詰まってしまうと思う。それらしい言葉を取り繕って説明してみても見破られてしまうし、自分自身もどこか腑に落ちないのである。

その原因は自分自身まだ社会というものを身体感覚として経験できていないということが大きいと思う。社会を経験するといっても別に経済の動向や政治のシステムを知るということではない。もちろんそれらも無視することのできない重要なことではあるが、それよりも日常を取り巻く小さくとも複雑に変化する様々な現象を肌でリアルに感じることが必要なのではないか。

それからブログがあまりにも味気ないので、ちょくちょく写真を載せていきたいと思います。
ちなみに載せる写真は本文と関係があるわけではないです。

2.10.08

「共有する次元」

今日、書店で立ち読みした本に、現代の若者は深い知識を持っているかもしれないが、誰もが共有でき話題に参加できる「共有する次元」を持たない、というようなフレーズがあった。自分の興味ある分野にはとても詳しく、なおも貪欲に知識を得ようとするが、それ以外の事には無関心であるケースが多く、そのため現代の若者は知識が欠けていると思われがちであるらしい。おそらく「オタク」に近い現象だろう。

そのあとそのコラムがどう展開されたかはよく覚えていないが、「共有する次元」は自分の価値観を押し広げ、新たな視点から見つめなおす機会を与えてくれる重要なファクターであるのは確かだと思う。だからといって一般教養を身に付けろということではないと思う。どんな分野であれ他の一切の事象から切り離されて存在するということはなく、直接ではないが何かしらリンクするところはあるはずだ。そのリンクするところを見つけ出すことで「固有の次元」だったものが「共有する次元」に変移する。

自分自身の思考を強化することは大切だが、そればかりに固執していてはかえって思考は行き詰まってしまう。常に自分の思考の軸をもちながらも、様々なことに目を向けることでこそ次の段階へと進むことができるのだろうな、と改めて考えさせられた。

30.9.08

デジタルとアナログ

高校生のとき読んだ英語の教科書に、インターネットは「直線的」であるのに対して読書は「遠回り」である、というような内容のコラムがあったのを覚えている。

英語で書いてあって詳しくは覚えていないが、インターネットというのは何かキーワードでもって検索すればすぐさまそのキーワードを含むページを提示してくれるが、本の場合目的の事項を見つけるまでに目的とは関係のない箇所も見なくてはならなく、時間もかかるから「遠回り」であるということであった。

他の人と比べたことはないが、自分は本を読むのが遅い。それでも多くの本を読もうと「速読」に関する本を何冊か見て、実際に挑戦しようとしたが出来ないでいる。速読は本に書かれていることで自分が必要としているのは2割程度だから、何をその本から得ようとしているのか目的意識を持てば一字一句読む必要はなく、早く読むほうがかえって全体の構造をよく理解できるということらしい。

速読はどちらかというと「直線的」な行為だ。僕は目的を持って本を読んでいるつもりだが、目的から外れた意外な発見の中にこそ何か自分の思考、価値観を広げてくれる可能性を感じること出来ているような気がして楽しい。それが「遠回り」のいい所だ。

僕はこの違いをデジタルとアナログの時計に例えることがあるのだけど、デジタルの時計は種類にもよるが、0:00から0:01という具合に時間の経過を知らせてくれるけど、その間にある小さな変化は見えない。対してアナログ時計の場合、針の軌跡にかすかな変化が見て取れる。

0か1に分けてしまうのではなく、その間のかすかな変化に何か大事なことあるような気がしている。

27.9.08

言葉にするということ

 感じたことを表現するのに適当な「言葉」が見つからないことが多い。当然のことだが「嬉しい」といっても、そこに含まれる感情、思いは人によって異なるし、同じ人物であっても状況によって異なってくる。

 それならと無理に感じたことを言語化する必要はないのではないかと思い始めていた。「言葉」にすることで複雑で変化に富むはずの感情、思考が限定、固定されてしまうのは本意ではないからだ。そのせいか自分のノートには言葉より下手糞な絵やダイアグラムのようなものが多く登場する機会が増えていた。

 しかし一方で言語化することで見えてくることもあるのではないかと最近思うようになった。漠然として掴み所のない感覚が、正確ではないかもしれないが言葉を与えることで輪郭が少しくっきりしてくる。そのことが次の段階へと思考を進めていく際の手がかりになってくれるのではないだろうか。言葉として表現したものが自分の感覚と大きくずれていたとしても修正は十分に可能だ。

言葉にするということは「私」という誰もうかがい知れないブラックボックスの中にあった感覚を外に放り出すということだ。外に出された感覚は同じ小説を読んでも読む人によってその解釈がそれぞれ違うように、人によって様々に捉えられる。その結果漠然とした感覚がより強化されることもあるだろうし、新たな感覚を生み出すきっかけになるかもしれない。

はじめます。

思うとこがあり今日からブログを始めてみました。

更新の回数はそれほど多くないかもしれないが、
考えたこと、思ったことを発信できる場になればと思います。

それではよろしく。