30.10.08

ホワイトベースのこと

前回の記事でホワイトベースの次の説明をお願いされたのですが、自分がいかに根拠も理由もなく空間をイメージしていたのか痛感しています。
ホワイトベースのきっかけは前回書いたように平面ではなく断面においてアルコーブを設けたら面白いんじゃないか、という単純なものです。具体的な敷地を特定しているわけではなく間口が狭く奥行きの深い、建物が密集している場所というくらいの設定です。

もともとスラブで各階を水平に分割するのには違和感があって、垂直方向ともっとダイナミックにつながっていたいというふうにいつも思っています。スロープや螺旋、スキップフロアなどの方法はあると思いますが今回は「断面アルコーブ」という方法を考えてみました。普通のアルコーブよりもアルコーブ自体の独立性は高くなっているけど、壁を設けず空気的には連続しているので空間全体の雰囲気・気配はどこにいても感じられると思います。水平的奥行きではなく、垂直(斜め)方向の奥行きを確保することで今までにない空間体験が得られるんじゃないかと期待しました。

もっと深く自分のつくったものと向き合って「強度」のある提案・説明が出来るようになったらまた書きます。


25.10.08

ホワイトベース

時間があったので模型を作ってみた。

断面においてアルコーブのある空間。

断面ワンルーム。







命名ホワイトベース。

15.10.08

重松象平レクチャー@myu

昨日、宮城大学にてOMAパートナー・重松象平さんのレクチャーが行われました。重松さんが今まで携わったプロジェクトについて、プロジェクトごとにどういったアプローチでデザインを進行させたのかを中心に、スライドを交えて約90分お話してくださった。

OMAは設計を進める際、過去の事例など膨大なデータを集めそれをもとに入念なリサーチを行う。その上でクライアントから提示されたプログラムが果たして適当かどうか見直し、新たな独自のプログラムを提案できないか検討する。そして十分なデータに裏付けされた新たなプログラムを実現するためにはどのような建築がふさわしいのか考える。このように書くと演繹的に設計が進められているようだが、そうではない。

重松さんが意識していたかかどうかわからないがレクチャーの中で何度か「強引に」とか「少し無理やり」というようなフレーズが登場した。プログラムを書き直すときや建築の形態などを決定する際、それまでのデータから離れた恣意的ともいうべき「強引な」操作が加えられる。この「強引さ」がクライアントの要求を超えて、プロジェクトに新たな可能性を生みだすことにつながる。

演繹的に考えていくとどうしても受身になってしまう。能動的に考え、思考をジャンプアップさせるにはある種の「強引さ」が必要なのだと強く感じた。しかもその「強引さ」は単なる思いつきではない。背景に膨大な量のデータと入念なリサーチがあるからこそ生まれてくるアイデアなのだ。だからこそ説得力をもつ魅力ある提案が出来るのだろう。



12.10.08

月評

新建築の最後のほうに毎回載ってる原広司さんの月評が楽しい。

作品があって批評があるというのが一般的なんだと思うけど、その関係が逆転している。個別の作品に対して批評するのではなく、あくまでも自分の論理を展開して、それぞれの作品は氏にとって、自分の論理を補足するためのものでしかない。
これを月評と呼んでいいのかわからないけど、とりあえず楽しい。機会があったら見てみてください。感想とかあったら聞かしてください。

9.10.08

独りよがり

自分が何か作ろうとするとき、その動機は「面白そう」というのが第一で社会的役割とか社会に与える影響などはほとんど考えていない。だから説明を求められても「面白そうだから」としか言いようがなく、どのように社会(というのは大げさかもしれないが)とリンクするのかがわからない。

もちろん動機として「面白そう」というのは悪いことではないと思うが、その面白さを共有してもらうための言葉やストーリーを持たないのでは単なる独りよがりになってしまう恐れがある。独りよがりではいつか行き詰まってしまうと思う。それらしい言葉を取り繕って説明してみても見破られてしまうし、自分自身もどこか腑に落ちないのである。

その原因は自分自身まだ社会というものを身体感覚として経験できていないということが大きいと思う。社会を経験するといっても別に経済の動向や政治のシステムを知るということではない。もちろんそれらも無視することのできない重要なことではあるが、それよりも日常を取り巻く小さくとも複雑に変化する様々な現象を肌でリアルに感じることが必要なのではないか。

それからブログがあまりにも味気ないので、ちょくちょく写真を載せていきたいと思います。
ちなみに載せる写真は本文と関係があるわけではないです。

2.10.08

「共有する次元」

今日、書店で立ち読みした本に、現代の若者は深い知識を持っているかもしれないが、誰もが共有でき話題に参加できる「共有する次元」を持たない、というようなフレーズがあった。自分の興味ある分野にはとても詳しく、なおも貪欲に知識を得ようとするが、それ以外の事には無関心であるケースが多く、そのため現代の若者は知識が欠けていると思われがちであるらしい。おそらく「オタク」に近い現象だろう。

そのあとそのコラムがどう展開されたかはよく覚えていないが、「共有する次元」は自分の価値観を押し広げ、新たな視点から見つめなおす機会を与えてくれる重要なファクターであるのは確かだと思う。だからといって一般教養を身に付けろということではないと思う。どんな分野であれ他の一切の事象から切り離されて存在するということはなく、直接ではないが何かしらリンクするところはあるはずだ。そのリンクするところを見つけ出すことで「固有の次元」だったものが「共有する次元」に変移する。

自分自身の思考を強化することは大切だが、そればかりに固執していてはかえって思考は行き詰まってしまう。常に自分の思考の軸をもちながらも、様々なことに目を向けることでこそ次の段階へと進むことができるのだろうな、と改めて考えさせられた。