29.9.09

茨城岩崎邸研修2009

毎年恒例の茨城での岩崎邸研修に今年も参加してきました。
今年からOBが主体となって企画されました。現役の学生の参加はなく、OB6名と小澤先生という例年に比べ少し寂しい感じではありましたが、今年も楽しく仕事させて頂きました。



参加するたびに驚かされるのは70歳を越えているとは到底思われない岩崎先生のバイタリティ。
岩崎邸は着工して8年(?)程経過し母屋はほぼ完成しましたが、これでも全体の30%程度。まだ客室棟、工房、露天風呂、駐車場、門などが残されおり、全て完成するまであと10年以上かかるそうです。
20年以上かけて茨城の都市部から離れた山の中で自邸をセルフビルドで建てているということから厭世的なイメージを持つかもしれないが、岩崎先生は積極的に外の社会とコンタクトをとっている。外部に対して開放的である。自分も秋田の農村の出身であるから実感として分かるが、田舎というのはひどく閉鎖的なコミュニティである。田舎というのは近所付き合いが盛んであるというイメージから開放的な印象を持つかもしれない。確かに近所付き合いは都市部に比べれば今なお盛んである。醤油がないからお隣さんの家に借りるということもある。しかしその開放性はごく限られた枠組みの中に限定される。その枠組みから外れるものに対しては排他的であると言ってよい。未知に対する許容量が極めて少ないように思う。
岩崎先生は閉鎖的なコミュニティに身を置きながら外部(その射程は近所付き合いに留まらずとても広く、世界にまで及ぶ)とコンタクトを取ることで開放性を維持している。閉鎖性と開放性の間を行ったり来たりしているこのダイナミクスこそが岩崎先生のバイタリティの要因なのかもしれない。

15.9.09

"Detachment"からの脱却

“「デタッチメント」から「コミットメント」へ”
これは村上春樹の作風の移り変わりを表現するキーワードらしい。かといって村上春樹について書こうということではない。そんなに村上作品を読んだわけでもないし。でも「東京奇譚集」(新潮文庫)「レキシントンの幽霊」(文春文庫)に収録されている「トニー滝谷」はおもしろかった。特に「トニー滝谷」は市川準監督によって映画化されたものも含めオススメです。

自分はこれまで周囲に対して「デタッチメント」か「コミットメント」どちらかと言われれば完全に前者であった。現在もそうである。しかし最近そんな態度に今更ながら限界を感じ始めている。本当は随分前から気づいていたのかも知れないが、無意識のうちに「デタッチメント」であることを良しとしていた。


自分が「デタッチメント」である理由はいくつか挙げられる。
ひとつは単純に臆病なだけ。人の影響を受け易い性質であるだけに、誰かと関わりを持つことで自分の考えが崩されていくことが恐いのだと思う。

もうひとつは誰にも「迷惑をかけたくない」という思い。こう書くと響きはいいが実はそうでない。誰にも「迷惑をかけられたくない」という宣言として「迷惑をかけない」という態度をとっているだけなのだ。そもそも「誰にも迷惑をかけない」というのは原理的にありえない。レヴィ=ストロースの「贈与」の考えによるならば、「迷惑をかけたり、かけられたりすること」自体がコミュニケーションの基本となるはずである。

それから誰かに何かを投げ掛けても「どうせ分からねぇだろ」という非常に傲慢な態度。これは今もある。おそらく自分は多くの知識・情報をほぼ盲目的に受け入れ、それらをうまく消化できないまま抱え込んでいる状態にあり、そのために言いたいこと伝えたいことの輪郭を定めることが出来ずにいる。そしてその曖昧模糊とした状態を晒すのを拒否している。自分の言いたいことが言えないのであるならば言わなくてもいいと思っている。しかし一方で情報量だけはそれなりにあるつもりでいるので人を見下したような傲慢な態度になる。本来享受した情報なり知識は一度アウトプットをして咀嚼しないと消化出来ないはずなのだがそれをしてこなかった。たぶん意識的に。

しかし「デタッチメント」であることには限界がある。前回も書いたように自分らしさ或いは「私」の核となるものは他者との対話の中で作り上げられていくものであるとするならば、周囲とコミットしていかない限り今の状態に留まることになる。それは嫌だ。

11.9.09

行って来ました。

先週、越後妻有アートトリエンナーレに行ってきました。 期間中に見に行ったのは今回が初。
多少急ぎ足で見たので、幾分疲れましたが面白い作品もいくつか見られたし、うまい飯も食えたので十分満足。


「森のひとかけら」福屋粧子


「もうひとつの特異点」Antony Gormley
「Wasted」向井山朋子

「蔓蔓」高橋治希

何でもそうだけど、カメラで撮って写真に残してみてもやっぱり実際の体験には敵わない。 被写体だけじゃなくてその場の空気や自分の心情など決して可視化できないもの、そういったものを含めた“一回性の体験”を味わうことこそが貴重なのだと、改めて気づかされた。

4.9.09

訳の分からないもの

訳の分からないものになりたいと思う。別に奇人・変人とかそういうのではなくて。

自分の現在持っているものさしでは決して計量することの出来ないものが、多くあるはずである。それこそ無限に。
しかし今それは見ることすら出来ないし、仮に見えたとしてもそれが自分にとって有益をもたらすものなのか分からない。自分のものさしで測り得るものではないから。

なにかと理由を付けてそのものの有益性を語ろうとする時点でそれは現在自分の持っているものさしで測ってしまっている。そのような解釈は比較的ストレスなく行われ快適であるが、そこで選択した一見中立的で普遍性をもつと思われることも、すでに予断や偏見が多く含まれている。そういった意味では真に中立的で客観的なものはない。我々の行う解釈は本来複数の読解可能性を有しているもののうちのたったひとつを自動的に選択してしまっている。そのことを絶えず意識しなければならない。さもなければ解釈の貧困化のプロセスを歩むことになる。

訳の分からないものをどこにも着地させず宙ぶらりんのまましておくことがあってもいいと思う。
そういう訳の分からないものは事後的にその理由を発見できればいいだけなのだ。