21.10.09

A Passer

近頃、落語を聴くことが多い。寄席に実際に行ったことはなく、CDを借りたりして聞いているのだがおもしろくて何度も聴いている。特に柳家小三治という噺家が好きでiTunesに入っているほとんどの落語が小三治師匠のものである。落語はテレビのお笑い番組のようなゲラゲラ笑うことは多くないが、何度も聴いて話の内容を知っていようとも思わず笑ってしまうところがある。

すごく失礼な言い方ではあるが古典落語は噺家が代々受け継いできた噺をそのまま繰り返しているに過ぎない。
間合いの取り方、登場人物の設定の仕方は演じる噺家によって変化するが噺の大筋は変わらない。しかも落語には台本がないため噺家はとりあえず師匠の噺をマネするしか習得の方法はない。噺を覚える段階で「ここでこの男が棟梁に対してこういう風に言うから面白いんだよ。」などと説明しながら教える師匠もいなければ、師匠に対して「ここでこうなるから面白いんですね。」などと言って覚えようとする弟子も(多分)いない。

弟子の噺の見本は常に師匠の噺である。それは弟子が真打になろうが関係ない。また師匠もそのまた師匠の噺を常に見本にしている。その見本には決して追いつけないのを知っていながらもその技に磨きをかけていく。師匠の噺を追い抜いたと思った瞬間弟子はその成長を止めることになる。

師匠は先代から受け取ったものを弟子にそのまま伝え、弟子はそれを何がどうすごいのかよく分からないが「何となくスゴそう」というあいまいな感覚のみを頼りに学ぶ。そして学びを継続してかなりの時間を経過してからそのものの真意を理解できるようになるが、そこで修行がおしまいになるわけではない。
やっと真意を理解出来るようになっても「師匠の伝えたかったことはこういうことなのか?」「本当はもっと違うところに真意があるんじゃないか?」という自問自答を延々と続ける。なにしろ師匠は弟子に対して「正解」を教えていないのだから、弟子は正解のない幻想とも言える真理を追い求めなければならなくそのため学びを終えることが出来ない。
しかし学びを終えることがないからこそ成長を続けることができる。

師匠は自分もその真理を理解したわけでもなければ習得もしていないが、先代から受け取った伝統をとりあえずそのまま弟子に伝える。それだけである。ここで伝えるのは決して技とか知識といった数量的なものではない。弟子も師匠に対して噺を面白くする技を教えて下さいなどとは言ってはならない。弟子が師匠から学ぶべきものはそういった数量的なものではない。
弟子は師匠の噺がどれほど面白いのか今はそれを伺い知ることが出来ないが、修行あるいは学びを積み重ねることによって自分の主体を変化・構築し、そのことによってなぜ学ぶのかを徐々に理解することになる。
そのような弟子に対して師匠は先代から受け継いだ噺をそのまま話すことでしかその目的を達成させることが出来ない。

ただ伝統(別に伝統じゃなくてもいいが。)をそのまま受け渡すということだけでもなんと有意なことだろうと思う。

29.9.09

茨城岩崎邸研修2009

毎年恒例の茨城での岩崎邸研修に今年も参加してきました。
今年からOBが主体となって企画されました。現役の学生の参加はなく、OB6名と小澤先生という例年に比べ少し寂しい感じではありましたが、今年も楽しく仕事させて頂きました。



参加するたびに驚かされるのは70歳を越えているとは到底思われない岩崎先生のバイタリティ。
岩崎邸は着工して8年(?)程経過し母屋はほぼ完成しましたが、これでも全体の30%程度。まだ客室棟、工房、露天風呂、駐車場、門などが残されおり、全て完成するまであと10年以上かかるそうです。
20年以上かけて茨城の都市部から離れた山の中で自邸をセルフビルドで建てているということから厭世的なイメージを持つかもしれないが、岩崎先生は積極的に外の社会とコンタクトをとっている。外部に対して開放的である。自分も秋田の農村の出身であるから実感として分かるが、田舎というのはひどく閉鎖的なコミュニティである。田舎というのは近所付き合いが盛んであるというイメージから開放的な印象を持つかもしれない。確かに近所付き合いは都市部に比べれば今なお盛んである。醤油がないからお隣さんの家に借りるということもある。しかしその開放性はごく限られた枠組みの中に限定される。その枠組みから外れるものに対しては排他的であると言ってよい。未知に対する許容量が極めて少ないように思う。
岩崎先生は閉鎖的なコミュニティに身を置きながら外部(その射程は近所付き合いに留まらずとても広く、世界にまで及ぶ)とコンタクトを取ることで開放性を維持している。閉鎖性と開放性の間を行ったり来たりしているこのダイナミクスこそが岩崎先生のバイタリティの要因なのかもしれない。

15.9.09

"Detachment"からの脱却

“「デタッチメント」から「コミットメント」へ”
これは村上春樹の作風の移り変わりを表現するキーワードらしい。かといって村上春樹について書こうということではない。そんなに村上作品を読んだわけでもないし。でも「東京奇譚集」(新潮文庫)「レキシントンの幽霊」(文春文庫)に収録されている「トニー滝谷」はおもしろかった。特に「トニー滝谷」は市川準監督によって映画化されたものも含めオススメです。

自分はこれまで周囲に対して「デタッチメント」か「コミットメント」どちらかと言われれば完全に前者であった。現在もそうである。しかし最近そんな態度に今更ながら限界を感じ始めている。本当は随分前から気づいていたのかも知れないが、無意識のうちに「デタッチメント」であることを良しとしていた。


自分が「デタッチメント」である理由はいくつか挙げられる。
ひとつは単純に臆病なだけ。人の影響を受け易い性質であるだけに、誰かと関わりを持つことで自分の考えが崩されていくことが恐いのだと思う。

もうひとつは誰にも「迷惑をかけたくない」という思い。こう書くと響きはいいが実はそうでない。誰にも「迷惑をかけられたくない」という宣言として「迷惑をかけない」という態度をとっているだけなのだ。そもそも「誰にも迷惑をかけない」というのは原理的にありえない。レヴィ=ストロースの「贈与」の考えによるならば、「迷惑をかけたり、かけられたりすること」自体がコミュニケーションの基本となるはずである。

それから誰かに何かを投げ掛けても「どうせ分からねぇだろ」という非常に傲慢な態度。これは今もある。おそらく自分は多くの知識・情報をほぼ盲目的に受け入れ、それらをうまく消化できないまま抱え込んでいる状態にあり、そのために言いたいこと伝えたいことの輪郭を定めることが出来ずにいる。そしてその曖昧模糊とした状態を晒すのを拒否している。自分の言いたいことが言えないのであるならば言わなくてもいいと思っている。しかし一方で情報量だけはそれなりにあるつもりでいるので人を見下したような傲慢な態度になる。本来享受した情報なり知識は一度アウトプットをして咀嚼しないと消化出来ないはずなのだがそれをしてこなかった。たぶん意識的に。

しかし「デタッチメント」であることには限界がある。前回も書いたように自分らしさ或いは「私」の核となるものは他者との対話の中で作り上げられていくものであるとするならば、周囲とコミットしていかない限り今の状態に留まることになる。それは嫌だ。

11.9.09

行って来ました。

先週、越後妻有アートトリエンナーレに行ってきました。 期間中に見に行ったのは今回が初。
多少急ぎ足で見たので、幾分疲れましたが面白い作品もいくつか見られたし、うまい飯も食えたので十分満足。


「森のひとかけら」福屋粧子


「もうひとつの特異点」Antony Gormley
「Wasted」向井山朋子

「蔓蔓」高橋治希

何でもそうだけど、カメラで撮って写真に残してみてもやっぱり実際の体験には敵わない。 被写体だけじゃなくてその場の空気や自分の心情など決して可視化できないもの、そういったものを含めた“一回性の体験”を味わうことこそが貴重なのだと、改めて気づかされた。

4.9.09

訳の分からないもの

訳の分からないものになりたいと思う。別に奇人・変人とかそういうのではなくて。

自分の現在持っているものさしでは決して計量することの出来ないものが、多くあるはずである。それこそ無限に。
しかし今それは見ることすら出来ないし、仮に見えたとしてもそれが自分にとって有益をもたらすものなのか分からない。自分のものさしで測り得るものではないから。

なにかと理由を付けてそのものの有益性を語ろうとする時点でそれは現在自分の持っているものさしで測ってしまっている。そのような解釈は比較的ストレスなく行われ快適であるが、そこで選択した一見中立的で普遍性をもつと思われることも、すでに予断や偏見が多く含まれている。そういった意味では真に中立的で客観的なものはない。我々の行う解釈は本来複数の読解可能性を有しているもののうちのたったひとつを自動的に選択してしまっている。そのことを絶えず意識しなければならない。さもなければ解釈の貧困化のプロセスを歩むことになる。

訳の分からないものをどこにも着地させず宙ぶらりんのまましておくことがあってもいいと思う。
そういう訳の分からないものは事後的にその理由を発見できればいいだけなのだ。

30.8.09

「自分らしさ」という幻想

多くの人、特に若者にとって「自分らしく」生きるということがひとつの大きなテーマになっていると思う。しかし己が生きるうえで大きな指針となる「自分らしさ」というものは幻想でしかないのではないか。「私」という自己はどこかの段階で自ら決定したことによって存在するものではなく、他者あるいは社会との対話の中で半ば強制的に決定されてしまうもののはずである。

自分らしさを語るときの「私」とはそもそも空っぽなのであって確固たる主体あるいは核を持って存在するのではない。その空っぽの容器の中にあらゆる経験・対話を集積させ、「私」を形成していくことになるのだろうが、そこで得られたいかなる要素でさえ核にはなりえなく、核はあくまで空っぽなのだろうと思う。(「中心は虚無がある」って何かの本に書いてあったけどなんだったかな?)

対峙する人によって態度を変化させる人のことを「裏表のある人」とか、誰に対しても愛想よく振舞う人を揶揄して「八方美人」と表現するが、程度の差こそあれ誰しも様々な顔を抱えているはずである。それこそ「裏と表」とか「八方」などのようには数え切れないくらい無数の「顔」を。

無数にあるはずの「顔」あるいは「私」のどれか一つを自ら選択してこれこそが「私」であると主張し、しがみついてしまうのではなく、。「私」の核となるものは「空っぽ」で、他者との対話の中で作り上げられている発展途上かつ常に未完成なものであるという意識をもつことが大事なのではないだろうか。

2.6.09

「異邦人」

「異邦人」(カミュ/新潮文庫)を読む。以前読もうと思って購入したものの、読まずに本棚にあったのだが、映画「殯(もがり)の森」(監督・脚本:河瀨直美/出演:うだしげき・尾野真千子)を見て本棚から出した。

主人公ムルソーは意味のないことは喋らない無口な性格の青年。何か言葉を発しようとしてもその言葉によって特に何か起こるわけでもない意味のなさぬことだと感じると口を閉じてしまう。
彼は母が死んでも涙を流すこともなく、その翌日には海水浴に行き、女と関係を結び映画を見て笑い転げる。
あるとき彼は友人レエモンの女性問題に巻き込まれ一人のアラビア人を銃で殺してしまう。
逮捕されたムルソーは母の死の翌日の行動を理由に検事から冷酷で非人道的な人間だと判断される。しかしムルソーは証言の内容にウソがないことを理由に反論は全くしない。唯一動機について「太陽のせい」とだけ答える。
結果ムルソーは斬首刑を言い渡される。
その後残された時間が僅かとなったムルソーは、面会に来て神を信じることの大切さを説く司祭を怒鳴り散らし追い出してしまう。
留置所の中でムルソーは今もなお幸福だと悟り、そして処刑の日に大勢の見物人が集まり憎悪の叫びをあげることを最後の望みとする。

しかしムルソーは決して狂気に満ちた男ではない。冷静な行動を心掛け、雲の流れに思いを寄せ、仕事のお昼休みを楽しみにする男である。そんなムルソーに対して検事は死刑を求刑する際こう述べる。
「私はこの男に対して死刑を求刑します。そして死刑を要求してもさっぱりした気持ちです。思うに、在職もすでに長く、その間、幾たびか死刑を要求しましたが、今日ほど、この苦痛な義務が、一つの至上の・神聖な戒律の意識と、非人間的なもの以外、何一つ読みとれない一人の男を前にして私の感ずる恐怖とによって、償われ、釣合いがとれ、光をうけるように感じたことは、かつてないことです」
このセリフには恐怖に似た違和感を覚えた。検事は己に全く否がなく、主張には矛盾がなく正義に満ちていることを確信し、死刑を求刑することで「さっぱりした気持ち」になり、さらには「光をうけるように感じ」ている。
この検事は過去、他の事件でやむを得ず死刑を求刑し苦痛を受けることもあったようだが、少なくともムルソーに対してはそのような苦痛を感じてはいない。つまり人に死を与える決断は「積極的」に選択されるべき状況も存在するということらしい。

自分が純真無垢であることを疑わず、「純真無垢な正義」を背に実行する行為そのものが残酷で非人間的な「忌むべき邪悪なるもの」であることは吟味しない。それは邪悪なるもの同様あるいはそれ以上に恐ろしいことのように思う。
「純真無垢な正義」という選択に際しても、自分自身が「忌むべき邪悪なるもの」ではないかという可能性を思慮し、ためらう感覚があって当然なのではないか。

6.5.09

長野・松本

連休中長野に行ってきました。


内藤廣設計による安曇野ちひろ美術館。


有名な黒部ダム。


善光寺。GW、しかも七年に一度の御開帳ということで朝早くからかなりの人出で前立本尊参拝・お戒壇めぐりあわせて2時間以上待った。
それでもお戒壇めぐりはかなり良かった。
機会があったらぜひ行ってみて下さい。

既視感

以前も書きましたが、自分の思考なり価値観が本当に自分のものなのか、疑わしいと思うことがよくある。

まるで自分の考えのように喋っていても「そういえば誰かがこんなこと言ってたなぁ。」とか。誰かの猿真似をしているだけなのかもしれないという感覚は常にある。もちろん無から何かを生み出すということはなく、それまでの経験なり、人からの影響はあって当然だと思うが、そのなかに自分のオリジナルと呼べるものがあるのかどうか怪しい。

そう考えていくと何かを知ることというのは積み重ねの作業というよりかは、自分の物でないものを削ぎ落としていく作業のことのようにも思える。

書きながら

書きながら考えている。

そのため主張が一貫していないということがよくある。
書くきっかけは些細なことでそこからどういう風に「オチ」をつけるかは決まっていないことが多い。普通「オチ」が決まっていて、その「オチ」の前振りとして全体を構成する言葉を紡いでいくものなのだと思う。違うかもしれないけど。

しかし自分は何かひとつ言葉を書いたら、その後何を言いたいのか分からなくなってしまうことがしばしばある。漠然としたニュアンスはあるのだが、それを言語化できない。そこでそこまで書いたことを眺めてみながら、「もしかしたら自分が言いたいことはこういうことかもしれないなぁ。」などと思いつつ、また少し書いてみる。

その都度、わずかな思考の決断、価値の決定をしながら書いていく。この繰り返しが基本。だから申し訳ないけど自分が何を最終的に言いたいのか、そんなことを聞かれても正直分からない。

24.4.09

目的と方法について

何のために学ぶのか?
何かの目的のためだけに学ぶという行為は危ういことかもしれない。何か達成すべき目的のために一直線に進むっていう姿勢それ自体は尊ぶべきことだとは思うが、そのことについて少し懐疑的になってみる必要がある。

そもそも自分はモノを知ることつまり学ぶことに「目的」なんてものはあるのか、とすら思ってしまう。
それは別に「学ぶこと自体が楽しいんだから、そこに目的なんか求めるのはナンセンスで、そんなものはなくてもいい。」というようなことではない。
もちろん学ぶこと自体楽しいというのはあるけども。
ただ何をするにせよ目的ってそんな単純なものではないし、仮に何か明確な目的があったとしても、それは決して不動のものではなく常に揺れ動く不安定なものだろうと思う。

例えば何か目的があったとする。「お金をたくさん稼ぐ」とか「幸せになるため」とか「自己実現のため」とかなんでもいい。その設定された目的を達成するために人それぞれ様々な方法を講じる。
そこでふと、じゃあ「お金を稼ぐ」「幸せになる」「自分らしく生きる」ことの目的は何なのか?という禅問答のような一段次数の高い疑問が出てくる。

引用になってしまうが、下の文の「身体」を「方法」、「意識」を「目的」と読み替えると分かりやすいかもしれない。

私たちが「身体」と呼んでいるものや「意識」と呼んでいるものは、その無限のグラデーションから恣意的に切り取られた、たかだか一こまの「切片」に過ぎない。「私の身体は頭がいい」(内田樹/文春文庫)

「方法」も「目的」もある大きな流れの中のあるひとつの断片を選択した結果に過ぎない。それ以外にも様々な選択肢がある。
ではなぜ自分はその「方法」と「目的」を選択したのか、それ以外をなぜ選択しなかったのか。そのことをもっと考えてみる必要がある。

 
写真は仙台ホテル。じつは結構イイ。

12.4.09

論理的であることを徹底した理論なり、思考には懐疑的である。
一貫した論理で構成された無菌的なあり方というのは、一見とても美しくみえるがひどく脆い。ほんの些細なほころびも許されない。

建築に限らず多くの分野では矛盾を徹底的に排除した無菌的である状態が良しとされる傾向があるように思える。クライアントなり社会に対して説明し説得力を持とうとするならその姿勢は当然といえば当然である。しかし隅から隅まで無矛盾を追及していく思考は排他的であるとも言える。

それよりも矛盾を前提としたあり方、あるいは矛盾を要素とし全体が構成されたあり方に興味がある。
皺だらけの論理とでも言ったらいいのか。そんなあり方は無いだろうか。


写真は定義山の五重塔。

2.3.09

Pier Luigi Nervi



写真は今日たまたま見た本に載っていたもので、イタリアの建築家ピエール・ルイジ・ネルヴィ(Pier Luigi Nervi、1891-1979)によるローマ・オリンピック競技場(1957)。

PCと現場打ちコンクリートが一体となったハーフPC造なるもので、天井面は向日葵の二重螺旋と同じ考えで、面を構成する全てのピースが相似形で出来ているのだそう。

27.2.09

ギャップ

建築雑誌などで竣工前のプロジェクト段階の模型を見る機会がある。その中には非常に魅力的で、竣工が楽しみなプロジェクトが多くある。しかし実際に立ち上がった建築を写真で見るとがっかりしてしまうことがある。

模型、CG、図面、ダイアグラムなどは設計の説明をするうえで有効な手段である。特に模型はプレゼンテーションはもちろん三次元によるスタディのツールとしても必要不可欠である。50分の1あるいは10分の1など詳細にわたってスタディをすることでリアルな建築との差異を可能な限り最小化し、これから立ち上がろうとする建築をシミュレートすることが出来る。
しかし実際に立ち上がった建築と模型では決定的に違う点がある。それは実際の建築は強力な存在感をもつということだと思う。模型は表現の仕方によっては非常に繊細で抽象的なものも作ることが出来るが、実際の建築は多くの費用と時間を費やしそこに関わる多くの人間の膨大な労力をもって実現に至る。使用される建材も鉄、コンクリート、木など確かな存在感をもつものを必要とする。
弱い建築、軽い建築など概念としては理解できるが実際に立ち上がる建築の存在はかなり強力だ。建物の存在感を消そうと全面ガラスにしようと、全ての壁を白く塗ろうと確かなリアリティをもって建築は存在する。それは模型やCGや図面では決して得ることの出来ないものかもしれない。

設計する際コンセプチュアルに建築を考えるあまり抽象的表現に走ってしまい、リアルな建築の姿を想像しにくい状況に陥ってしまっているのかもしれない。もちろん素材のスタディも行うだろうが、素材は素材で美しければ良いというような建築全体のイメージから切り離され、コンセプトを補完するような関係になっていないのではないか。
別にコンセプチュアルに建築を考えるのが悪いというではなく、抽象的なコンセプトをいかにリアルに表現するか、バーチャルとリアルのギャップをどう埋めるかというのはすごく重要だと思う。
 
写真は(多分)ポルトガルで行われたPeter Zumthor展のもの。リンク先は忘れた。すいません。


あと余談になりますが、アカデミー賞を受賞した「つみきのいえ」(監督 加藤久仁生)がすごくよかった。
機会があったら見てみてください。

11.2.09

「変身」

主人公であるグレゴール・ザムザはある朝、眼が覚めると自分が巨大な虫に変身してしまっている。この冒頭部分を読む限りでは、現実世界とはかけ離れた非常に奇怪な世界の中で物語が展開するのではないかと思っていたが、そうではなかった。

グレゴールが虫に変身してしまったことが家族に対して与える影響は決して大きくない。一家の稼ぎ頭だったグレゴールが働くことが出来なくなった以上、商売に失敗して隠棲していた父親や17歳の妹までもが働かなくてはいけない状況になったがそのこと自体はそれほど珍しいことではない。別に虫でなくてもグレゴールが何か重い病気を患ってしまったとしても同じことである。
家族の一人がある日突然、巨大な虫に変身してしまうという非現実的なことがおこったのだから、家族はもちろんそれを取り囲む人達が平静でいられないのが普通である。パニックになって普段ではあり得ない異常な行動をとってしまっても何ら不思議な無いし、むしろそれが当然だろう。

しかしこの物語ではその「当然」が起こらない。家族はグレゴールが虫になった原因を究明するわけでもなく、元の人間の姿に戻す手段を探すこともしない。かといってグレゴールを排除することもせず家族はただその状況を受け入れ、その上で普通の生活を維持しようと努めるだけ。当のグレゴール自身も人間らしさを維持しようとは試みるが解決しようという気配は一切無く、虫として隣の部屋から遠巻きに家族の行方を観察しているだけ。

物語は一貫して現実世界を淡々と描写するだけ。そこには何ら主義、主張があるわけではない。グレゴールが虫に変身してしまった以外は我々が現実に体験している世界そのままである。しかしグレゴールが虫に変身したという現象その一点において日常的な光景がひどく異常なものに「変身」してしまう。我々が普段暮らすこの現実世界も実は異常なものかもしれないという疑念を呼び起こす作品だと思う。

7.2.09

理解し難いもの

小説やエッセイ、論文などでその意味内容がなかなか理解出来ず、読んだあと何か違和感が残るようなものがある。そういうのは現在の自分のパラダイムを見直すいい機会になると思う。理解困難=難しいではない。
難しい専門用語やら概念を並べて書かれてあるものというのはそれほど重要ではない。そういった類のものは一見目新しいこと言っているようで、その構造というか中身をよくよく見直してみると実は当たり前の事実をもっともらしく見せているに過ぎないものが多いような気がする。
心理学の中に行動分析学という分野があって、そこでは「節約の原理」が徹底されている。

ある事象に対する説明の仕方が複数ある時、どれがもっとも優れた説明であるかを決める基準の1つに「節約の原理 parsimony」がある。ある事象を説明する際に、使われる概念は少なければ少ないほど、よい説明であるとするものである。つまり、概念をなるべく倹約するということから「節約の原理」と呼ばれる。
中略
「節約の原理」を忘れると、新しい現象を説明するたびに新しい概念を作る必要が出てくる。しかも、それらの多くは循環論で、説明になってない。「多動性が強いから教室内で離席して動き回る」と言われると、もっともらしいと思う人も多いようだが、じっとしていられないで動き回ることを多動というのである。
「行動分析学入門―ヒトの行動の思いがけない理由」杉山尚子著/集英社新書

難しい概念や言葉を多く使って書かれているものは、単語の意味を理解するのにエネルギーを費やしてしまい、読んだことそれ自体に満足してしまいがちである。
自分自身の思考をより深めていこうとする場合、出来れば平易な言葉でもって書かれてはいるけど、何を主張したいのかなかなか理解しがたいようなものがいいと思う。そのように書かれたものは全体からぼんやりとしたイメージは受け取るが、それが何なのかはっきりと掴めないため理解しようと思考を深めていく。その思考を深めていく作業があるからこそ自分なりの理解、意味を得ることが出来る。
これは何も小説などのように書かれたものに限らず、他の表現体についても一緒だと思う。

2.2.09

STDY

前回の続き。
といっても前回とほとんど一緒になってしまった。
スタディするならもっと大きく変化をつけていかなきゃならないんだろうけど、とりあえずメモ代わりに。

今回も穴の位置は一緒で、壁と壁の接点。ただ今回は穴の大きさでグラデーションをつくって、外部との境界を曖昧にした。奥に行くほど穴が小さくなって、壁の面積が大きくなっている。
腰壁のついている穴が数箇所あるが、そこには天板を載せてテーブルのようにしてみた。
接点に穴をあけると角が開放され部屋の境界がぼやけるが、壁が独立して見えるようになるためかえって壁の存在感が際立つような印象をもった。

26.1.09

タイトル 未定

ずいぶん前(確か去年の6月くらい)に作った模型です。

壁の中央ではなく壁と壁の接点に穴を開けてみたら面白いんじゃないかな、という思い付きで作った模型です。
ギャラリーとかに応用出来そうだけど、それだとありきたりかも。



24.1.09

戒め

自分への戒めとして

頭の中にあるモヤモヤとしたイメージを過不足無く正確に言葉にすることはすごく難しく、そもそもそんなことは不可能なのかもしれない。だからといって自分の中に閉じ込めていても思考は自分の狭い枠組みを超えて発展することはなく、固定化されてしまう。脳はそれほど有能ではないらしい。

言葉にして初めて気づくこともあるし、そこから思いもよらないところに思考が飛躍し、新たな視点を得ることもある。そんな期待も込めてこのブログを始めたけど、最近はまた言葉に捕らわれてしまっているような気がします。

エクリチュールが自由であるのは、ただ選択の行為においてのみであり、ひとたび持続したときには、エクリチュールはもはや自由ではなくなっている。
(『零度のエクリチュール』ロラン・バルト)


言葉はある瞬間の思考を表した記号に過ぎず、その一瞬の後は言葉は何にも属せず独立した存在となるため、言葉に執着しても仕様が無い。
 

12.1.09

「壁」

遅くなりましたが、今日は「壁」(安部公房著/新潮文庫)の紹介です。
僕自身この作品は物語の結末が重要なのではなく作品全体を通して得られるモヤモヤとしたイメージが魅力的だと思います。そのため作品の内容自体に多く触れてしまっているので、注意してください。
「壁」(安部公房著/新潮文庫)
名前を喪失してしまった男の話。名前は「名刺」という実体をもち本体から分離し意思を持った存在となる。彼らは「死んだ有機物から生きている無機物へ!」を標榜し物質としての主体を回復するためにズボン、時計、眼鏡、靴等とともに革命を企て、主人公を陥れようとする。
名前を失った男は実体を持つものの胸にただならぬ空虚感を抱く。実際に胸のうちは空っぽになってしまっている。その空虚による陰圧のため、眼を通して胸のうちに雑誌に載っていた荒野の風景を取り込んでしまう。そしてその風景を窃盗した罪を問われ奇妙な裁判にかけられる。そしてその裁判は世界中どこまでも男を追いかける。
名前は他人から区別するための記号に過ぎない(「名前のない」はそれはそれで「名前を持つ」他人と区別できるため固有の存在になるが)。人権が名前に関するものであるため男は法律の保護を受けられず、いかなる不当な判決も受けざるを得ない。彼に対する罪状は徹底して論理的であるが、名前がないためどこか荒唐無稽なものとなる。しかし男は名前がなくどんな否認にも価値を持たないため、あらゆる指導に「素晴らしく素直」にならざるを得なく死刑を免れることは出来ない。
男は実業家を自称するマネキンに、裁判から逃れるための唯一の方法として「世界の果」へと行くことを教えられる。「世界の果」への出発は壁を凝視すること。荒野を歩く旅人が地平線に魅せられ旅人の眼に地平線が絶えず入り込みやがて眼の中に地平線が芽生えるように、壁も男の眼を通じて胸のうちに吸収されてしまう。その壁は既に胸のうちにあった荒野の中で成長を続け、やがて男自体も「壁」となっていく。

この作品は全体を通して論理的であることに徹底している。名前のない男という設定から始まり、そのことが何を意味するのか常に論理的な説明のもと話が進められていく。
名前を持たないことは現実の世界においていかなる存在権を失うことを意味している。存在権を失った男の目には世界は非常に奇妙で無茶苦茶な世界として写る。その無茶苦茶な世界観を奇妙な登場人物(主体を回復しようとする物質たち)が一層強める。
ここで登場する「壁」は空間を規定する一要素ではない。入り口であり、その中自体に空間を有するものであり、成長する独立した存在であり、価値逆転の結果である。名前の喪失とともに現実世界での存在権も失った男が最終的に行き着いた「世界の果」の地平線とも言うべき「壁」は名刺、ズボン、眼鏡等が目指した主体を回復した「生きている無機物」そのものである。
確かに論理的な説明をもとに話は進められてはいるが、全体を読み通して何を意図した作品なのかを汲み取ることは出来なかった。消化しきれない異物として頭の中に残っている。安部公房の作品は常にベクトルは自己の内側に向かっている。内側に向かうことを徹底した結果、ベクトルは逆転し外に向かう。そんな印象を受ける。

11.1.09

「危うさ」を引き受ける

「Rem Koolhaas: A Kind of Architect」を見た。

レム・コールハースのドキュメンタリー映画。コールハース自身が生い立ちや建築家になった理由、独自の考察を紹介する。他にもプロジェクトの紹介や関係者(OMAの所員、建築家、美術史家、思想家など)のインタビューも盛り込まれている。「S・M・L・XL」を映像化したような感じ。

OMAは莫大なデータを収集・調査することから設計を開始する。その膨大なデータは作品が説得力をもつ上で重要なツールであるが、そのデータへの過剰な信頼には「危うさ」を感じる。

当然のことだがデータとは定量化された情報でしかなく、現実の生活で起こっている事柄には定量化出来ない情報が多分にあって、そのデータとして可視化されない情報こそが重要なのだと思う。その定量化できない情報を無視(しているわけではないと思うが)して、データに頼り過ぎるのは危険だと思う。
そのような「危うさ」みたいなものをこの映画の冒頭を見ながら思っていた。

しかしOMAのスタッフへのインタビューを聞いていて彼らはその「危うさ」を引き受けているような印象を受けた。

データを基に設計を進めるOMAだが彼らはそのデータが絶対ではなく儚く脆いものだということを知っている。だから設計段階でデータの文脈から外れた強引とも思える操作が加えられる。さらに彼らは竣工後の建物にデータからは予想出来ないアクシデントが起こることも覚悟している。
無責任にも思える態度かもしれないが、完璧な建築というものはもちろん存在しないし、新しいものをつくる以上リスクを避けることは出来ない。コールハースやOMAはそのリスクを「避けるべき」マイナス要因としてではなく、新しいことをするために「取るべき」ものとして引き受けている。リスクは「取るべき」もので、その上でいかに最小化できるかが重要なのだと思う。

以上、映画を見ての感想。