25.12.10

「今」に立つ

最近の課題は「『今』に立つ」ということ。これは心の在り方としてではなく、あくまで身体運用上の課題であると自分では思っている。

「今」というのは直線的に流れる時間のある一点、ある瞬間を示すものではない。仮に「今」という時間がある点としてあるならば、ひとつの「今」の後には直ちに次の「今」という点が浮かび上がってくる。そのように無数の瞬間的点から成り立っている「今」は一見連続しているが、それら点と点の間には無数の「切れ目」が存在する。しかし我々は普段「時間」というものを「切れ目」のない連続的存在としてイメージすることが出来る。

であるならば「今」というのは点としてではなく、面的イメージを有するものではないだろうか。「今」というのを「いままで」と「いまから」というように過去と未来の両方向に展開可能な存在としてイメージしてみるとき、時間の連続性がより明確に浮かび上がってくる。「今」は未来と過去の両極に手を伸ばしながら我々のもとにとどまっている。未来と過去の間に「今」があり、その間としての「今」から未来と過去が生まれる。

では「今」に立つというのは具体的にどういうことか。

小学校のとき柔道を習っていたが、相手を投げるとき投げの動作に入る直前に「この背負い投げは決まるな」という感覚があり、そして「投げ終わった後の姿」が頭にイメージとして浮かぶことがたまに(ホントにたまに)あった。そういった感覚のときは本当に綺麗に技が決まった(ように思う)。逆に投げられるときも同じような感覚があった。

それはそれまで型稽古を繰り返して得た過去の「相手を投げるイメージ」をそっくりそのまま未来に投影し、そのイメージを時間的に先取りしトレースするという複雑面倒な手順を時間的にはほんの一瞬の間に行ったということではないか。

過去に積み上げた経験から未来を創り出し、そのイメージに身を投じるべく動く、ということが私にとっての「『今』に立つ」ということです。

21.12.10

知ったかぶりの効能


本当は知らないことでも、今持ちうる知識をもってさも知っているかのように語ることは思いのほか重要のように思う。

僕という人間は結局のところ、どこかよそ(・・)でつくられたものでしかないのだ。そしてすべてはよそ(・・)から来て、またよそ(・・)に去っていくのだ。僕はぼくという人間のただの通り道に過ぎないのだ。(ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編 村上春樹著 新潮社版

自らが語る言葉は自らの内にはない。話し手は対話のとき相手が今何を聞きたいと望んでいるのか、その「聞き手の欲望」を察知しなければならない。それは微妙な表情の変化に顕れることもあるだろうが、ほとんどはその話し手と聞き手の間に生じる文脈に依拠する。その文脈を察知し語るという行為こそが「情理を尽くして語る」ということである。

情理を尽くして語られた言葉の中には、当初自分が思いもしていなかった言葉が浮かび「あんなこと喋るつもりはなかったんだけど、でも案外面白いことを発見できたんじゃないか」というように事後的に自らが言いたかったことに気づく。自分が「話し手」でありながら自らが発する声を聞く「聞き手」であるということ。そのような循環の中で知性は活発になっていくものだと思う。

19.12.10

孤独について

自分は孤独だと思う。そんなこと人が聞けば笑うだろうし、そんなのは思い違いだと言うかもしれない。しかし孤独とは友人の多寡や配偶者の有無など客観的指標でもって形式化できるものではないし、他人と比較してどうこうという問題ではない。孤独とはあくまで“自称”で誰かの承認を必要としない。当人が孤独であると思えば孤独なのである。

「言わなきゃ分からない」と主張する人がいるがそういった人々に「言えば分かるのか?」と問いたい。言葉や会話を介してのコミュニケーションは確かに重要なことではあるが、言葉もコミュニケーションの手段のひとつに過ぎない。些細な表情や仕草、息遣いやさらには身に纏うオーラなどを読みとることで成立する沈黙のコミュニケーションだってあるのだ。それを考慮せず言語コミュニケーションの重要性ばかりを強調する人のコミュニケーション能力は疑わしい。

自己とはその中に他者を抱えるということによって成立する。自分の中に他者の目を持ち込むことによってはじめて思考し自我を得ることが出来るのだ。しかしその「自分」という他者が考えていることも理解できず、言語化することすら儘ならず結果「自分」自身からも孤独になってしまう。

だからといって絶望するのではない。分からないながらもここにこうして書き記すように何とか「他者」と交わることは出来るのだ。分かってもらえないということの向こう側に分かるということがあるのだ。その難儀な作業を行うことが出来るのというのが「人間性」のひとつであるように思う。