連休中長野に行ってきました。
内藤廣設計による安曇野ちひろ美術館。
6.5.09
既視感
以前も書きましたが、自分の思考なり価値観が本当に自分のものなのか、疑わしいと思うことがよくある。
まるで自分の考えのように喋っていても「そういえば誰かがこんなこと言ってたなぁ。」とか。誰かの猿真似をしているだけなのかもしれないという感覚は常にある。もちろん無から何かを生み出すということはなく、それまでの経験なり、人からの影響はあって当然だと思うが、そのなかに自分のオリジナルと呼べるものがあるのかどうか怪しい。
そう考えていくと何かを知ることというのは積み重ねの作業というよりかは、自分の物でないものを削ぎ落としていく作業のことのようにも思える。
まるで自分の考えのように喋っていても「そういえば誰かがこんなこと言ってたなぁ。」とか。誰かの猿真似をしているだけなのかもしれないという感覚は常にある。もちろん無から何かを生み出すということはなく、それまでの経験なり、人からの影響はあって当然だと思うが、そのなかに自分のオリジナルと呼べるものがあるのかどうか怪しい。
そう考えていくと何かを知ることというのは積み重ねの作業というよりかは、自分の物でないものを削ぎ落としていく作業のことのようにも思える。
書きながら
書きながら考えている。
そのため主張が一貫していないということがよくある。
書くきっかけは些細なことでそこからどういう風に「オチ」をつけるかは決まっていないことが多い。普通「オチ」が決まっていて、その「オチ」の前振りとして全体を構成する言葉を紡いでいくものなのだと思う。違うかもしれないけど。
しかし自分は何かひとつ言葉を書いたら、その後何を言いたいのか分からなくなってしまうことがしばしばある。漠然としたニュアンスはあるのだが、それを言語化できない。そこでそこまで書いたことを眺めてみながら、「もしかしたら自分が言いたいことはこういうことかもしれないなぁ。」などと思いつつ、また少し書いてみる。
その都度、わずかな思考の決断、価値の決定をしながら書いていく。この繰り返しが基本。だから申し訳ないけど自分が何を最終的に言いたいのか、そんなことを聞かれても正直分からない。
そのため主張が一貫していないということがよくある。
書くきっかけは些細なことでそこからどういう風に「オチ」をつけるかは決まっていないことが多い。普通「オチ」が決まっていて、その「オチ」の前振りとして全体を構成する言葉を紡いでいくものなのだと思う。違うかもしれないけど。
しかし自分は何かひとつ言葉を書いたら、その後何を言いたいのか分からなくなってしまうことがしばしばある。漠然としたニュアンスはあるのだが、それを言語化できない。そこでそこまで書いたことを眺めてみながら、「もしかしたら自分が言いたいことはこういうことかもしれないなぁ。」などと思いつつ、また少し書いてみる。
その都度、わずかな思考の決断、価値の決定をしながら書いていく。この繰り返しが基本。だから申し訳ないけど自分が何を最終的に言いたいのか、そんなことを聞かれても正直分からない。
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