24.4.09

目的と方法について

何のために学ぶのか?
何かの目的のためだけに学ぶという行為は危ういことかもしれない。何か達成すべき目的のために一直線に進むっていう姿勢それ自体は尊ぶべきことだとは思うが、そのことについて少し懐疑的になってみる必要がある。

そもそも自分はモノを知ることつまり学ぶことに「目的」なんてものはあるのか、とすら思ってしまう。
それは別に「学ぶこと自体が楽しいんだから、そこに目的なんか求めるのはナンセンスで、そんなものはなくてもいい。」というようなことではない。
もちろん学ぶこと自体楽しいというのはあるけども。
ただ何をするにせよ目的ってそんな単純なものではないし、仮に何か明確な目的があったとしても、それは決して不動のものではなく常に揺れ動く不安定なものだろうと思う。

例えば何か目的があったとする。「お金をたくさん稼ぐ」とか「幸せになるため」とか「自己実現のため」とかなんでもいい。その設定された目的を達成するために人それぞれ様々な方法を講じる。
そこでふと、じゃあ「お金を稼ぐ」「幸せになる」「自分らしく生きる」ことの目的は何なのか?という禅問答のような一段次数の高い疑問が出てくる。

引用になってしまうが、下の文の「身体」を「方法」、「意識」を「目的」と読み替えると分かりやすいかもしれない。

私たちが「身体」と呼んでいるものや「意識」と呼んでいるものは、その無限のグラデーションから恣意的に切り取られた、たかだか一こまの「切片」に過ぎない。「私の身体は頭がいい」(内田樹/文春文庫)

「方法」も「目的」もある大きな流れの中のあるひとつの断片を選択した結果に過ぎない。それ以外にも様々な選択肢がある。
ではなぜ自分はその「方法」と「目的」を選択したのか、それ以外をなぜ選択しなかったのか。そのことをもっと考えてみる必要がある。

 
写真は仙台ホテル。じつは結構イイ。

12.4.09

論理的であることを徹底した理論なり、思考には懐疑的である。
一貫した論理で構成された無菌的なあり方というのは、一見とても美しくみえるがひどく脆い。ほんの些細なほころびも許されない。

建築に限らず多くの分野では矛盾を徹底的に排除した無菌的である状態が良しとされる傾向があるように思える。クライアントなり社会に対して説明し説得力を持とうとするならその姿勢は当然といえば当然である。しかし隅から隅まで無矛盾を追及していく思考は排他的であるとも言える。

それよりも矛盾を前提としたあり方、あるいは矛盾を要素とし全体が構成されたあり方に興味がある。
皺だらけの論理とでも言ったらいいのか。そんなあり方は無いだろうか。


写真は定義山の五重塔。