26.1.09

タイトル 未定

ずいぶん前(確か去年の6月くらい)に作った模型です。

壁の中央ではなく壁と壁の接点に穴を開けてみたら面白いんじゃないかな、という思い付きで作った模型です。
ギャラリーとかに応用出来そうだけど、それだとありきたりかも。



24.1.09

戒め

自分への戒めとして

頭の中にあるモヤモヤとしたイメージを過不足無く正確に言葉にすることはすごく難しく、そもそもそんなことは不可能なのかもしれない。だからといって自分の中に閉じ込めていても思考は自分の狭い枠組みを超えて発展することはなく、固定化されてしまう。脳はそれほど有能ではないらしい。

言葉にして初めて気づくこともあるし、そこから思いもよらないところに思考が飛躍し、新たな視点を得ることもある。そんな期待も込めてこのブログを始めたけど、最近はまた言葉に捕らわれてしまっているような気がします。

エクリチュールが自由であるのは、ただ選択の行為においてのみであり、ひとたび持続したときには、エクリチュールはもはや自由ではなくなっている。
(『零度のエクリチュール』ロラン・バルト)


言葉はある瞬間の思考を表した記号に過ぎず、その一瞬の後は言葉は何にも属せず独立した存在となるため、言葉に執着しても仕様が無い。
 

12.1.09

「壁」

遅くなりましたが、今日は「壁」(安部公房著/新潮文庫)の紹介です。
僕自身この作品は物語の結末が重要なのではなく作品全体を通して得られるモヤモヤとしたイメージが魅力的だと思います。そのため作品の内容自体に多く触れてしまっているので、注意してください。
「壁」(安部公房著/新潮文庫)
名前を喪失してしまった男の話。名前は「名刺」という実体をもち本体から分離し意思を持った存在となる。彼らは「死んだ有機物から生きている無機物へ!」を標榜し物質としての主体を回復するためにズボン、時計、眼鏡、靴等とともに革命を企て、主人公を陥れようとする。
名前を失った男は実体を持つものの胸にただならぬ空虚感を抱く。実際に胸のうちは空っぽになってしまっている。その空虚による陰圧のため、眼を通して胸のうちに雑誌に載っていた荒野の風景を取り込んでしまう。そしてその風景を窃盗した罪を問われ奇妙な裁判にかけられる。そしてその裁判は世界中どこまでも男を追いかける。
名前は他人から区別するための記号に過ぎない(「名前のない」はそれはそれで「名前を持つ」他人と区別できるため固有の存在になるが)。人権が名前に関するものであるため男は法律の保護を受けられず、いかなる不当な判決も受けざるを得ない。彼に対する罪状は徹底して論理的であるが、名前がないためどこか荒唐無稽なものとなる。しかし男は名前がなくどんな否認にも価値を持たないため、あらゆる指導に「素晴らしく素直」にならざるを得なく死刑を免れることは出来ない。
男は実業家を自称するマネキンに、裁判から逃れるための唯一の方法として「世界の果」へと行くことを教えられる。「世界の果」への出発は壁を凝視すること。荒野を歩く旅人が地平線に魅せられ旅人の眼に地平線が絶えず入り込みやがて眼の中に地平線が芽生えるように、壁も男の眼を通じて胸のうちに吸収されてしまう。その壁は既に胸のうちにあった荒野の中で成長を続け、やがて男自体も「壁」となっていく。

この作品は全体を通して論理的であることに徹底している。名前のない男という設定から始まり、そのことが何を意味するのか常に論理的な説明のもと話が進められていく。
名前を持たないことは現実の世界においていかなる存在権を失うことを意味している。存在権を失った男の目には世界は非常に奇妙で無茶苦茶な世界として写る。その無茶苦茶な世界観を奇妙な登場人物(主体を回復しようとする物質たち)が一層強める。
ここで登場する「壁」は空間を規定する一要素ではない。入り口であり、その中自体に空間を有するものであり、成長する独立した存在であり、価値逆転の結果である。名前の喪失とともに現実世界での存在権も失った男が最終的に行き着いた「世界の果」の地平線とも言うべき「壁」は名刺、ズボン、眼鏡等が目指した主体を回復した「生きている無機物」そのものである。
確かに論理的な説明をもとに話は進められてはいるが、全体を読み通して何を意図した作品なのかを汲み取ることは出来なかった。消化しきれない異物として頭の中に残っている。安部公房の作品は常にベクトルは自己の内側に向かっている。内側に向かうことを徹底した結果、ベクトルは逆転し外に向かう。そんな印象を受ける。

11.1.09

「危うさ」を引き受ける

「Rem Koolhaas: A Kind of Architect」を見た。

レム・コールハースのドキュメンタリー映画。コールハース自身が生い立ちや建築家になった理由、独自の考察を紹介する。他にもプロジェクトの紹介や関係者(OMAの所員、建築家、美術史家、思想家など)のインタビューも盛り込まれている。「S・M・L・XL」を映像化したような感じ。

OMAは莫大なデータを収集・調査することから設計を開始する。その膨大なデータは作品が説得力をもつ上で重要なツールであるが、そのデータへの過剰な信頼には「危うさ」を感じる。

当然のことだがデータとは定量化された情報でしかなく、現実の生活で起こっている事柄には定量化出来ない情報が多分にあって、そのデータとして可視化されない情報こそが重要なのだと思う。その定量化できない情報を無視(しているわけではないと思うが)して、データに頼り過ぎるのは危険だと思う。
そのような「危うさ」みたいなものをこの映画の冒頭を見ながら思っていた。

しかしOMAのスタッフへのインタビューを聞いていて彼らはその「危うさ」を引き受けているような印象を受けた。

データを基に設計を進めるOMAだが彼らはそのデータが絶対ではなく儚く脆いものだということを知っている。だから設計段階でデータの文脈から外れた強引とも思える操作が加えられる。さらに彼らは竣工後の建物にデータからは予想出来ないアクシデントが起こることも覚悟している。
無責任にも思える態度かもしれないが、完璧な建築というものはもちろん存在しないし、新しいものをつくる以上リスクを避けることは出来ない。コールハースやOMAはそのリスクを「避けるべき」マイナス要因としてではなく、新しいことをするために「取るべき」ものとして引き受けている。リスクは「取るべき」もので、その上でいかに最小化できるかが重要なのだと思う。

以上、映画を見ての感想。