18.2.13

As a passer

 「私たちは自分が欲するものを他人に贈ることによってしか手に入れることができない」そういったのは文化人類学者のレヴィ=ストロースです。

「良きパッサー」であること。これは私が常々心がけていることです。私にはオリジナルと呼べる手持ちの資源はほとんどありません。不器用ですしクリエティブな才能がある訳でもない。頭の回転がさほど早いわけでもなければ、交渉術が優れているわけでもない。あなたには一体何が出来るのだと誰かに詰問されたらしどろもどろしてしてしまいます。ただそんな私でも誰かに贈り物をすることは出来ます。

 手持ちのない奴がどうやって贈り物をするのか訝しがる方もいるかと思いますが、私は出来ると思っています。別に難しいことじゃない。誰かから聞いた事、本を読んで知った事、人から教えてもらった技術や知識というのは誰しもが持っているものです。それらを難しく分かりにくければ自分なりに噛み砕いてたとえ話をいれるなどして少しだけアジャストして次の人にパスすればいい。そう思います(この考え方自体すでに誰かから聞いたことです)。

 ではなぜパスをするのか、それは知識や技術といったものは循環運動の中に置かれなければならないからです。知識や技術の価値はその内に自存するものではなく、それは誰かにパスをすることで初めて価値を持ち得ます。価値といってもその技術でいくら儲けたとかそういうことではありません。それは副次的な結果に過ぎず大事なのはパスすることそのこと自体に価値があるということです。パスをする人にはもちろんそうでない人よりも多くのパスが贈られる。当然のことながら受け取るだけ受け取って次の人には一向にパスをしないような人にはやがてだれもパスを贈らなくなります。パスを贈る人ほど活発な循環運動の中に身を置くことができる。循環運動が活発だと要はそれだけ自らの知識や技術を参照する機会が多くなるということです。そうやって繰り返し参照しているとやがて自分はなぜこのような知識や技術を必要としたのか、逆にこれ以外のことはなぜ知らないのかという根源的な問いにぶつかります。もちろんそれについての決まった答えなんかはありませんがその場その場で暫定的な答えを出すこと出来る。問いにぶつかるたびに暫定的な答えを出しては崩しまた作り直す。そうやって絶えず更新していくことでしかその奥深くへは到底行けません。

 別に奥深くへたどり着いたところで何か奇跡的に素晴らしいものがあるとは思ってませんがただより良く生きていこうと思うならばそのようなプロセスは欠かせない。私はそう思います。
木々