29.11.08

「眼」

先日、宮城大にて行われたA_tという勉強会に参加してきました。初めての企画で白熱した議論とまではいきませんでしたが、次回に向けていいきっかけになったと思います。

僕にとってアートは新たな価値観を与えてくれるきっかけとなる情報のひとつだと思っています。そういう意味では小説やエッセイなんかも同じ情報のひとつです。
ウイルス学者の河岡義裕はウイルスを研究する理由として「別に正義感でウイルスの研究をやっているわけではありません。ただ世界が今までと全く違ったように見えるときがある。それが楽しい。」というようなことを言っていました。
僕がアートを見たり、本を読んだりするのは知識を得ることよりも、そこで得た知識を踏み台にして今までと違った見方の出来る「眼」を持ちたいからだと思う。


23.11.08

告知のお手伝い



11月27日にmyuにて中田研究室の3年生が中心になって企画したArt×Architectureという勉強会があります。全3回の予定。僕も参加予定です。


参加を希望される方は私に連絡ください。
時間がある方は来てみてください。

19.11.08

恐怖

これは僕が影響を受け易い性質だからかもしれないが、自分がつくったもの、あるいは考えたことがある共同体の中で形成されたフレームワークに過ぎず、既に誰かによって考え尽くされてしまったものではないかという恐怖がある。

何かをつくったり考えたりすることはゼロから何かを生み出すということではなく、無意識ではあるが今まで経験してきたことを参照しているため、まったくのオリジナルというのは存在しないと思う。それでもその中にどれだけ自分自身が悩んで、思考を巡らした痕跡が残せているかが気になる。



先週の土日に一年生の設計製図のTAとして東京に行ってきました。
toru,gnk,池ちゃん,sugi,泊めてくれてありがとう。

6.11.08

肉体化された論理

何日か前に「肉体化された論理でなければ役に立たない」というようなフレーズを何かの本で見た。確かにそうだと思った。何かを表現するには自分なりの論理というか、思想がないといけない。それがないと単なるスタイルになって、すぐ飽きてしまう。しかし自分自身はまだ借り物の論理だけで「肉体化された論理」は持っていない。そんなことを考えていたとき吉本隆明の言葉を思い出した。

これは僕が勝手に自分を納得させた考え方なんですが、言葉というものの根幹的な部分はなにかといったら、沈黙だと思うんです。言葉というのは、オマケです。沈黙に言葉という部分がついているようなもんだと解釈すれば、僕は納得します。

だいたい、言葉として発していなくても、口の中でむにゃむにゃ言うこともあるし、人に聞こえない言葉で言ったりやったりしてることがあります。そういう「人に言わないで発している言葉」が、人間のいちばん幹となる部分で、いちばん重要なところです。なにか喋ってるときは、それがいいにしろ悪いにしろ、もう余計なものがくっついているんです。だから、それは本当じゃないと思います。まして、そのオマケの言葉を、誰かがいいと思ったり悪いと思ったりするようなことは、そのまたもっと末のことで、それはほとんどその人には関係ないことです。

人からは沈黙に見えるけど、外に聞こえずに自分に語りかけて自分なりにやっていく。そういうことが幹であって、人から見える言葉は「その人プラスなにか違うものがくっついたもの」なんです。いいにしろ悪いにしろ、「その人」とは違います。
(吉本隆明の声と言葉/編集構成 糸井重里/HOBONICHIBOOKS刊)

「肉体化」というのは「沈黙」ということとほとんど同じかもしれない。だから言葉でああだこうだと考えているうちは本当の思考ではない。言葉に限らず、写真を撮ることや旅行することなどは思考を肉体化するための手段ではあって目的ではない。こうやって書いていることも「書く」ということで論理や思考を肉体化していく作業のように思える。