30.8.09

「自分らしさ」という幻想

多くの人、特に若者にとって「自分らしく」生きるということがひとつの大きなテーマになっていると思う。しかし己が生きるうえで大きな指針となる「自分らしさ」というものは幻想でしかないのではないか。「私」という自己はどこかの段階で自ら決定したことによって存在するものではなく、他者あるいは社会との対話の中で半ば強制的に決定されてしまうもののはずである。

自分らしさを語るときの「私」とはそもそも空っぽなのであって確固たる主体あるいは核を持って存在するのではない。その空っぽの容器の中にあらゆる経験・対話を集積させ、「私」を形成していくことになるのだろうが、そこで得られたいかなる要素でさえ核にはなりえなく、核はあくまで空っぽなのだろうと思う。(「中心は虚無がある」って何かの本に書いてあったけどなんだったかな?)

対峙する人によって態度を変化させる人のことを「裏表のある人」とか、誰に対しても愛想よく振舞う人を揶揄して「八方美人」と表現するが、程度の差こそあれ誰しも様々な顔を抱えているはずである。それこそ「裏と表」とか「八方」などのようには数え切れないくらい無数の「顔」を。

無数にあるはずの「顔」あるいは「私」のどれか一つを自ら選択してこれこそが「私」であると主張し、しがみついてしまうのではなく、。「私」の核となるものは「空っぽ」で、他者との対話の中で作り上げられている発展途上かつ常に未完成なものであるという意識をもつことが大事なのではないだろうか。

4 件のコメント:

todome さんのコメント...

”他者あるいは社会との対話の中で半ば強制的に決定されてしまうもの”、これ以外の部分はだいたい共感。

もし自己が”強制”の結果であれば、その先には、全く何も生まれないんじゃない?

”私”たちは空っぽなりに、主体的に”選択”してるんだと思うけど。八方美人だって”強制”じゃなくて”選択”の結果じゃない。だからこそ、自己の”選択”と他者の対話の擦り合わせが生産的におきる。

強制それは逃避的な思考だと思う。

todome さんのコメント...

そして、そこには大きな矛盾があるよね。”空っぽ”の自主体性。

todome さんのコメント...

てことは、”自己”を疑うと同時に、”空っぽ”は空っぽではないのかもしれないという疑いもまたある。うーむ。

。。。言葉遊び。

なんか誤字脱字が多い。。。

Inomata Teppei さんのコメント...

>todome
読みにくいところがいろいろあってごめんね。あとで直しとく。

いくつかある社会あるいはコミュニケーションの中からどこに自分を放り込むかは“主体的”に選択できるけども、その後はほとんどどうすることも出来ないようにも思う。それに“強制的”に決定されてしまうことがそれほど悪いことのようにも思わないんだよね。

そして“空っぽ”はその意味を意識してしまった時点でそれはきっと“空っぽ”じゃなくて“意味を込められた何か”になってしまってるんじゃないかな。そんでまた新たな“空っぽ”が出来る。
だから“空っぽ”っていうのは決して意識下には出てこないんだと思う。

ちょっとレスになってるかどうか、文章として成立しているかどうか分からないけど、今はこんな感じかな。