17.1.11

解釈された意味

以前書店で立ち読みしたBRUTUSの特別号に紹介されていた、Gregory Colbertというアーティストの写真が妙に気になっている。聖典らしきものを読む少年の前で一頭の象が跪きじっとしているというような構図だったが、言葉も通じず種も違う両者がただ近くに一緒にいるだけでなにかとても重要なコミュニケーションが果たされているような印象を受けた。
我々は常に解釈された意味を読んでいる。いかなる情報であれ、それは読み手の都合のいいよう肯定され否定もされる。それまで培ってきた事実体験、知識などを総動員した上で、そのうちの何かとリンクを張ることで初めて自らにとって有用な情報へと移行させることが出来る。それ以外の情報、つまり読み手にとって完全に中立的な情報はそもそも情報として我々の前に顕現し得ない。この知的動作はコンピューターや人工知能では(少なくとも現段階では)不可能な人間特有なアクションである。
だから私が思う優れた作家というのは、多くの人の「誤解」を可能にする人のことだと思う。「なるほど、この作家がこの作品を通じて表現したかったのはこういうことか。」と暫定的に解釈する。しかしどこかの段階でそれが恣意的解釈なのだということに気づいたとき、今度は自らがなした解釈を疑う。「いや、俺なんかが思うような安易なことは、この作家は考えないはずだ。もっと深い、隠されたメッセージがあるはずだ。」とさらなる恣意的解釈を試みる。無知のスパイラルの完成である。そこには常に自分が今立っている場所からは見ることの出来ない「無知」が存在する。いくら解釈を試みても「まだ何かメッセージがあるはず。」という思いに駆られる。
吉本隆明のいう知識を極めたあとに着地すべき「非知」とは、このことを意味しているのかもしれないと思った。

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