7.3.13

大人の条件

 大人になること。これは私が自らに課している命題のひとつである(なんと課題の多いこだろう)。
ではどうすれば大人になれるのか、大人の条件とはなにか。

 二十歳を超えること、自分の稼ぎで生活すること、結婚すること、子どもを養うこと。いくつか思い浮かべてみたがどれも納得できない。おそらくこのように実定的な事柄が大人の条件ではない。このような条件を満たした人でも子どものような人はいくらでも見かけることが出来る。

 そもそも大人とは一体どのような存在なのだろうか?私が思うにそれは多くの人格を自らのうちに抱え込んでおける人物のことだろうと思う。
私はまだ28歳だが自分が10歳の時に思い描いた28歳は人生とはどんなものなのかある程度見通しをたてて泰然自若と日々暮しているものだと思っていた。しかしいざ自分がその年になってみるととんでもないそんなことはなかった。多くの人は私と同じような感覚だろうとおもう。

 私がこの歳に差し掛かって実感するのは実に多くの人格が自分の内側に存在するのだなあということです。いやホントに多くの人格がいる。明るく陽気なもの、人に優しいもの、やる気に満ちているもの。そんなものの一方で私の中には妬み、疑い、恨み、憎しむ邪悪な人格も確かに存在する。そんな人格が表に出てきて悪さをすることがしばしばある。歳を重ねるごとに不要な邪念にとらわれ身動きがとれなくなる。
子どもはそうではない。子どもはそれこそ無垢に遊び自分の嫌いなことを受け入れることはしなくても良い。しかしその分大変脆い存在である。自らの世界があまりに透明度が高いために一滴の汚水が紛れ込んだだけでたちまちその世界は失われてしまう。

 我々は歳を重ねるに連れ多くの邪悪な人格を自らの内に抱え込まねばならなくなる。自分が理想とするもの、あるべき姿と思い描くものからかけ離れた邪悪な人格は我が身の骨肉に食い込む削り取ることなどできない。なんとか受け入れていくしかない。
 受け入れるというのは屈服するということではない。もちろんそれを讃えるということでもない。受け入れるというのはその来歴も知れず制御もできない邪悪なものをよく観察して脇に置いておくということである。どのような場面でそれは顔を出しどのような行動をするのかそのことについてよく観察しその行動を把握はするけども気にしない。自分にとって不都合で不快な人格と共生していくことそれが大人に求められる条件であると思う。


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