6.11.08

肉体化された論理

何日か前に「肉体化された論理でなければ役に立たない」というようなフレーズを何かの本で見た。確かにそうだと思った。何かを表現するには自分なりの論理というか、思想がないといけない。それがないと単なるスタイルになって、すぐ飽きてしまう。しかし自分自身はまだ借り物の論理だけで「肉体化された論理」は持っていない。そんなことを考えていたとき吉本隆明の言葉を思い出した。

これは僕が勝手に自分を納得させた考え方なんですが、言葉というものの根幹的な部分はなにかといったら、沈黙だと思うんです。言葉というのは、オマケです。沈黙に言葉という部分がついているようなもんだと解釈すれば、僕は納得します。

だいたい、言葉として発していなくても、口の中でむにゃむにゃ言うこともあるし、人に聞こえない言葉で言ったりやったりしてることがあります。そういう「人に言わないで発している言葉」が、人間のいちばん幹となる部分で、いちばん重要なところです。なにか喋ってるときは、それがいいにしろ悪いにしろ、もう余計なものがくっついているんです。だから、それは本当じゃないと思います。まして、そのオマケの言葉を、誰かがいいと思ったり悪いと思ったりするようなことは、そのまたもっと末のことで、それはほとんどその人には関係ないことです。

人からは沈黙に見えるけど、外に聞こえずに自分に語りかけて自分なりにやっていく。そういうことが幹であって、人から見える言葉は「その人プラスなにか違うものがくっついたもの」なんです。いいにしろ悪いにしろ、「その人」とは違います。
(吉本隆明の声と言葉/編集構成 糸井重里/HOBONICHIBOOKS刊)

「肉体化」というのは「沈黙」ということとほとんど同じかもしれない。だから言葉でああだこうだと考えているうちは本当の思考ではない。言葉に限らず、写真を撮ることや旅行することなどは思考を肉体化するための手段ではあって目的ではない。こうやって書いていることも「書く」ということで論理や思考を肉体化していく作業のように思える。

5 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

もし真っ当に、その引用文の中身を理解するなら、言葉にされている沈黙、もしくわ自分自身に語りかける言葉が必要なのであって、”言葉でああだこうだと考えている”事こそが”肉体化”の過程なのでは?写真、旅行、書く、事での自分自身への”問いかけ”とその”葛藤”と”解答”が”肉体化”と思うけど。

そもそも肉体化されることなど本当にくるのかね?んでもって、それは危険度高い。

Inomata Teppei さんのコメント...

>todome
「言葉でああだこうだと考えている」ことは忌むべきことではなくて、その行為そのものが肉体化への過程だと捉えれば、もっとポジティブになれそうだなと思う。

肉体化されることの危険ってのいうのは思考が固定されてしまうこともそのひとつなのかな?確かに肉体化されていくことで無意識のうちに思考が凝り固まっていくのは怖い。

匿名 さんのコメント...

てっぺい東京に遊びにきなよ

肉食おうぜ

匿名 さんのコメント...

肉体化の方ではなく沈黙の方。むしろ思考が(テンポラリーに)固定されていく事はすごくいい事だと思うし。(それがないと自分の意見を言えない。)でも肉体化された思考は一度肉体を離れるべきだね。言葉として。

だから東京に肉食いいってこい。

焼き肉食いたい。

Inomata Teppei さんのコメント...

>sugi
先日はお世話になりました。
肉は今度行くとき案内してくれ。

>todome
「肉体化された思考は一度肉体を離れるべき」確かにそうだね。
矛盾しているかもしれないけど肉体から離れたところでないと思考が肉体化されたかどうかは分からないのかもしれない。そもそも分かるのかという疑問はあるけど。

ちなみに東京には行って来たよ。肉は食いに行ってないけど。