11.1.09

「危うさ」を引き受ける

「Rem Koolhaas: A Kind of Architect」を見た。

レム・コールハースのドキュメンタリー映画。コールハース自身が生い立ちや建築家になった理由、独自の考察を紹介する。他にもプロジェクトの紹介や関係者(OMAの所員、建築家、美術史家、思想家など)のインタビューも盛り込まれている。「S・M・L・XL」を映像化したような感じ。

OMAは莫大なデータを収集・調査することから設計を開始する。その膨大なデータは作品が説得力をもつ上で重要なツールであるが、そのデータへの過剰な信頼には「危うさ」を感じる。

当然のことだがデータとは定量化された情報でしかなく、現実の生活で起こっている事柄には定量化出来ない情報が多分にあって、そのデータとして可視化されない情報こそが重要なのだと思う。その定量化できない情報を無視(しているわけではないと思うが)して、データに頼り過ぎるのは危険だと思う。
そのような「危うさ」みたいなものをこの映画の冒頭を見ながら思っていた。

しかしOMAのスタッフへのインタビューを聞いていて彼らはその「危うさ」を引き受けているような印象を受けた。

データを基に設計を進めるOMAだが彼らはそのデータが絶対ではなく儚く脆いものだということを知っている。だから設計段階でデータの文脈から外れた強引とも思える操作が加えられる。さらに彼らは竣工後の建物にデータからは予想出来ないアクシデントが起こることも覚悟している。
無責任にも思える態度かもしれないが、完璧な建築というものはもちろん存在しないし、新しいものをつくる以上リスクを避けることは出来ない。コールハースやOMAはそのリスクを「避けるべき」マイナス要因としてではなく、新しいことをするために「取るべき」ものとして引き受けている。リスクは「取るべき」もので、その上でいかに最小化できるかが重要なのだと思う。

以上、映画を見ての感想。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

去年の学会誌(建築雑誌)の、たしか『レム・コールハース以降の建築理論』って特集の月のやつに、OMAとかMVRDVのデータを用いたデザイン手法のことについて書いてる文章があったよ。
「データとデザインの結びつけかたもそうだし、そもそもデータを採取する対象を選ぶとこからすでに恣意的なんだよねー」
というようなことが書いてあったよ。
最近の内田樹のブログでも、
「ある問題解決のロールモデルとして取り上げたデータが条件の異なる別の集団にそのまま適用できるわけないじゃん」
というようなことが書いてあったよ。

匿名 さんのコメント...

つまり、そういう意味では、結局彼らもプロジェクトごとの特殊解を導いてるわけだな。うむ。

匿名 さんのコメント...

学会誌での指摘もそうだけど、それは重松さん本人も言ってました。そんなことはわかっていると。この辺の指摘についてそれをとっくに自覚してるであろうクールハースはどういう解答をするのか激しく興味があります。

3人目の人格が出てきたりしてw

っていうかお前それ買ったのか?貸して貸して。

ちなみにもう知ってると思うけどこれはそのDVDに関する藤村さんと五十嵐さんの対談→

http://www.webdice.jp/dice/detail/1169/

Inomata Teppei さんのコメント...

>sugi
恣意的というより、能動的っていう感じがするな。どっちも同じことかもしれないけど。

>todome
さらにその特殊性を手放してしまっている感じだったな。もちろん解に対しての責任を担った上でだけど。

>yoshida
貸してもいいよ。感想聞かせてな。

そしてその対談、今知った。ありがとう。後ほど見てみます。