15.9.09

"Detachment"からの脱却

“「デタッチメント」から「コミットメント」へ”
これは村上春樹の作風の移り変わりを表現するキーワードらしい。かといって村上春樹について書こうということではない。そんなに村上作品を読んだわけでもないし。でも「東京奇譚集」(新潮文庫)「レキシントンの幽霊」(文春文庫)に収録されている「トニー滝谷」はおもしろかった。特に「トニー滝谷」は市川準監督によって映画化されたものも含めオススメです。

自分はこれまで周囲に対して「デタッチメント」か「コミットメント」どちらかと言われれば完全に前者であった。現在もそうである。しかし最近そんな態度に今更ながら限界を感じ始めている。本当は随分前から気づいていたのかも知れないが、無意識のうちに「デタッチメント」であることを良しとしていた。


自分が「デタッチメント」である理由はいくつか挙げられる。
ひとつは単純に臆病なだけ。人の影響を受け易い性質であるだけに、誰かと関わりを持つことで自分の考えが崩されていくことが恐いのだと思う。

もうひとつは誰にも「迷惑をかけたくない」という思い。こう書くと響きはいいが実はそうでない。誰にも「迷惑をかけられたくない」という宣言として「迷惑をかけない」という態度をとっているだけなのだ。そもそも「誰にも迷惑をかけない」というのは原理的にありえない。レヴィ=ストロースの「贈与」の考えによるならば、「迷惑をかけたり、かけられたりすること」自体がコミュニケーションの基本となるはずである。

それから誰かに何かを投げ掛けても「どうせ分からねぇだろ」という非常に傲慢な態度。これは今もある。おそらく自分は多くの知識・情報をほぼ盲目的に受け入れ、それらをうまく消化できないまま抱え込んでいる状態にあり、そのために言いたいこと伝えたいことの輪郭を定めることが出来ずにいる。そしてその曖昧模糊とした状態を晒すのを拒否している。自分の言いたいことが言えないのであるならば言わなくてもいいと思っている。しかし一方で情報量だけはそれなりにあるつもりでいるので人を見下したような傲慢な態度になる。本来享受した情報なり知識は一度アウトプットをして咀嚼しないと消化出来ないはずなのだがそれをしてこなかった。たぶん意識的に。

しかし「デタッチメント」であることには限界がある。前回も書いたように自分らしさ或いは「私」の核となるものは他者との対話の中で作り上げられていくものであるとするならば、周囲とコミットしていかない限り今の状態に留まることになる。それは嫌だ。

9 件のコメント:

yoshida さんのコメント...

detachmentとcommitment。

そういわれれば多くの悩みはここから始まってる気がするからこの話にはすごく共感できる。

これからする話は多分てっぺいの言ってることと飛びすぎて若干ずれてるとは思うのだけれど、多分近しい問題を持ってると思う。

というのも逆にオレ的にはcommitmentの方に限界を感じつつあるんだよね。

というのも組織で仕事をしてると(しかも公共の!)どんなことでも、やたらに詳細に説明を求められるんだよ。〈A3で何百枚って。〉

くだらないリスクマネジメントによる本当にくだらない修正がいっぱいあるんだけど、それらをのぞいて言うなら一般的にどうすればよい印象を与えられるかって内容が割と多い。そうイメージ戦略。

なんどもなんども資料を作り直しては一般的に好感の持てるイメージに近づけていこうと施主(公共)は考えている。

こういった合意形成のプロセスの中で感じるのはどんなにクレイジーな(でも有意義な)始まり方をしたプロジェクトでもひたすらに中庸に向かっていくという寂しさ。虚しさ。つまらなさ。

今までだって、その時代の中庸≒常識なんてすぐにころころ変わってきたっていうのに。

前にどっかの文献で石山修武が「資本主義の社会とは中庸の社会である」みたいなことを言ってたけど最近ようやくその意味がわかった。「時代をうちやぶるものが出来る時には、いつでもトップダウンのシステムが働いていた」みたいなことも言ってたかな、確か。

このことは正直事実だと思う。

意外や意外。実力主義に見えるこの資本主義の時代がもっとも中庸なものを生み出す社会なんだよ。多数派の時代だから。



かなり浅いことを言ってるかもしれないけど、このトップダウンってのがまさにdetachmentの部分な気がするわけ。

ね?commitmentだって怪しいもんだろ?


だからと言って、これにただ抗ってde-に走れば、閉塞感にあふれた社会の中で自分も閉塞していくしかない気がするんだよ。

例えば「自分はただひたすらに好きな人の住宅だけ作っていけばいいんだ」みたいな。(正直それもいいなとか思ってしまう自分もいるんだけど・・・。それなら全然detachmentでいいと思うし、ひとつありだと思う。)

そう考えると多分commitmentとdetachmentは二項対立する言葉として捉えないほうがいいんじゃないかな。

例えばそのふたつの言葉をまったく相手にしないような戦略。
あるいはcommitmentのプロセスをコントロールするdetachmentの意思とでも言うような新しい視点の戦略。

とてつもない苦しみを伴う道だと思う。
(今一番近いことが出来てるのはOMAかな。やっぱ。)




さて。おれはどうしよっか。




って感じ。


てっぺいもそうだけどとどめはどう考えてるの?

Inomata Teppei さんのコメント...

>yoshida
“commitmentとdetachmentは二項対立する言葉として捉えないほうがいい”っていうのはその通りだと思う。

detachmentという枠から抜け出してcommitmentに移行したとしてもその枠の中に留まっていると、今度はcommitmentという閉鎖的な枠の中に捉えられてしまうよな。

重要なのはdetachmentかcommitmentを選択するという姿勢ではなくて、常にどちらをも行き来していくというダイナミクスなんだと思うわ。

だから「“detachment”からの脱却」って書いておきながらそれでも俺はdetachmentであることも絶対に必要だとも感じているよ。

“クレイジーな始まり方をしたプロジェクトでもひたすらに中庸に向かっていく”って言うのも初めは確かに「革新的な」アイデアであったものも一度社会に受け入れられた途端それは「既にある」アイデアになってしまう。
だから本当に革新的であるというのは常に変化し続けるものでなければいけいないよな(別にその「変化」が「進歩」じゃなくてもいいと思うけど)。

それってやっぱり相当キツイね。

todome さんのコメント...

おおっと。するーパス。

それ、正直なとこ俺はどっちでもいいかな。(別に投げやりな解答を意味してるわけではない)その概念が、分かるけど、分からない。

detachment=閉鎖、commitment=解放って図式の作り方にそもそも違和感を覚えているし。そもそもそれって自分リアリティーの問題だと思う。個人的には、今その話と社会性との間にある関係性の話にリアリティーを感じていない。

でも”あるいはcommitmentのプロセスをコントロールするdetachmentの意思とでも言うような新しい視点の戦略。”ってのは何かわかる。つまりそれって、階層があるってことで。detachmentとcommitmentの2項対立の1レイヤーで行き来しててもしょうがなくて、”戦略”の無数のレイヤーの中で、このレイヤーはdetachment、このレイヤーはcommitmentって感じで選択するってべきかと思う。そしてそのレイヤーは必要のない限り混同しなくていいし。

そういう意味では、俺はたぶん70%くらいのレイヤーはdetachmentでも30%はcommitmentであるけどね。

てかみんなそうだよね。

todome さんのコメント...

detachmentの反対にattachmentを置いてないとことも重要な気がする。commitmentはもうちょいメタな話だよね。やっぱり。

あと意識的か盲目的か。盲目的なcommitmentほど、なんか良く見えて立ち悪い者はない。逆もしかりか。

todome さんのコメント...

そもそも社会はそんなに閉鎖感に満ち溢れているのだろうか。

みんながみんな、それが問題であるように話しだす、状況がそもそも問題であると思う。(問題意識の共有のされ方に問題を感じるね。)

todome さんのコメント...

でも、実際は閉鎖感に満ちているのだけど。

yoshida さんのコメント...

満ちている。

満ちているとは思うけど自分の勇気ひとつかもしれないから今の時代とかそういうことじゃないのかもしれない。

とりあえず飛び出してみる。

そういう勇気が足りないのかもしれない。

とどめはすげーなー。

Unknown さんのコメント...

「自分はただひたすらに好きな人の住宅だけ作っていけばいいんだ」と声高に学生時代言っておきながらデカブツを生成してる俺が通りますよ

学会や有名雑誌に凸することをcommitmentといい、それを最先端の建築プロセスだとしたとして、

たぶん別に学会とはあんまり無縁だけれど面白おかしく幸せにやってる人たちも探すと結構いるよね

前者をプロ、後者をアマチュアとするならば、別にハイアマチュアで食ってければ幸せかと思いますが・・・



commitmentを単純にcommunicationとするならばこれは大変重大な問題ですよ鉄平くん

Inomata Teppei さんのコメント...

>todome/yoshida
実際社会に閉塞感が漂っているかどうかはわからないけど仮に漂っているとしたら、それは自分に対して閉塞感とか行き詰まりみたいなんを感じているんじゃないかなぁ。
その自身を投影して社会とか周囲の環境を見てしまうことってのはどうしてもあると思うな。

>toru
「commitmentを単純にcommunicationとするならばこれは大変重大な問題ですよ」か。
耳が痛い限りです。

どっちが上位てことはないけど、俺の場合まずはcommitmentよりcommunicationから真剣にやっていかないといけない気がするんですが・・・。