本当は知らないことでも、今持ちうる知識をもってさも知っているかのように語ることは思いのほか重要のように思う。
僕という人間は結局のところ、どこかよそでつくられたものでしかないのだ。そしてすべてはよそから来て、またよそに去っていくのだ。僕はぼくという人間のただの通り道に過ぎないのだ。(ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編 村上春樹著 新潮社版)
情理を尽くして語られた言葉の中には、当初自分が思いもしていなかった言葉が浮かび「あんなこと喋るつもりはなかったんだけど、でも案外面白いことを発見できたんじゃないか」というように事後的に自らが言いたかったことに気づく。自分が「話し手」でありながら自らが発する声を聞く「聞き手」であるということ。そのような循環の中で知性は活発になっていくものだと思う。
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