21.12.10

知ったかぶりの効能


本当は知らないことでも、今持ちうる知識をもってさも知っているかのように語ることは思いのほか重要のように思う。

僕という人間は結局のところ、どこかよそ(・・)でつくられたものでしかないのだ。そしてすべてはよそ(・・)から来て、またよそ(・・)に去っていくのだ。僕はぼくという人間のただの通り道に過ぎないのだ。(ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編 村上春樹著 新潮社版

自らが語る言葉は自らの内にはない。話し手は対話のとき相手が今何を聞きたいと望んでいるのか、その「聞き手の欲望」を察知しなければならない。それは微妙な表情の変化に顕れることもあるだろうが、ほとんどはその話し手と聞き手の間に生じる文脈に依拠する。その文脈を察知し語るという行為こそが「情理を尽くして語る」ということである。

情理を尽くして語られた言葉の中には、当初自分が思いもしていなかった言葉が浮かび「あんなこと喋るつもりはなかったんだけど、でも案外面白いことを発見できたんじゃないか」というように事後的に自らが言いたかったことに気づく。自分が「話し手」でありながら自らが発する声を聞く「聞き手」であるということ。そのような循環の中で知性は活発になっていくものだと思う。

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