27.2.09

ギャップ

建築雑誌などで竣工前のプロジェクト段階の模型を見る機会がある。その中には非常に魅力的で、竣工が楽しみなプロジェクトが多くある。しかし実際に立ち上がった建築を写真で見るとがっかりしてしまうことがある。

模型、CG、図面、ダイアグラムなどは設計の説明をするうえで有効な手段である。特に模型はプレゼンテーションはもちろん三次元によるスタディのツールとしても必要不可欠である。50分の1あるいは10分の1など詳細にわたってスタディをすることでリアルな建築との差異を可能な限り最小化し、これから立ち上がろうとする建築をシミュレートすることが出来る。
しかし実際に立ち上がった建築と模型では決定的に違う点がある。それは実際の建築は強力な存在感をもつということだと思う。模型は表現の仕方によっては非常に繊細で抽象的なものも作ることが出来るが、実際の建築は多くの費用と時間を費やしそこに関わる多くの人間の膨大な労力をもって実現に至る。使用される建材も鉄、コンクリート、木など確かな存在感をもつものを必要とする。
弱い建築、軽い建築など概念としては理解できるが実際に立ち上がる建築の存在はかなり強力だ。建物の存在感を消そうと全面ガラスにしようと、全ての壁を白く塗ろうと確かなリアリティをもって建築は存在する。それは模型やCGや図面では決して得ることの出来ないものかもしれない。

設計する際コンセプチュアルに建築を考えるあまり抽象的表現に走ってしまい、リアルな建築の姿を想像しにくい状況に陥ってしまっているのかもしれない。もちろん素材のスタディも行うだろうが、素材は素材で美しければ良いというような建築全体のイメージから切り離され、コンセプトを補完するような関係になっていないのではないか。
別にコンセプチュアルに建築を考えるのが悪いというではなく、抽象的なコンセプトをいかにリアルに表現するか、バーチャルとリアルのギャップをどう埋めるかというのはすごく重要だと思う。
 
写真は(多分)ポルトガルで行われたPeter Zumthor展のもの。リンク先は忘れた。すいません。


あと余談になりますが、アカデミー賞を受賞した「つみきのいえ」(監督 加藤久仁生)がすごくよかった。
機会があったら見てみてください。

7 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

見る側にもあるよね

Unknown さんのコメント...

俺も昔そんなこと思ってたけど、現場みたらちょっと変わったかな。

実際の建物は、ありゃでかい模型だぞどっちかっていうと。
ただし、汚れない・壊れない作り方のね
(模型はハリボテの時もあるからな)

写真・CG・模型と何が違うかといったら
物理的に質量が違う→その存在感ってことだな
それこそハリボテと実物の違いか

メディアテークの例もあるしな
「かるい建築を目指していたけど、実際に現場をみたらその圧倒的な鉄の量に逆に迫力を感じちゃったぜ俺」みたいなこと伊東さん言ってたね

匿名 さんのコメント...

建築家の建築は”最終的”にドローイングの上にしか存在しないと私は思っているのだね(批判があればどしどしどうぞ)。だからこそドローイングが建築との距離感というのはすごく重要だと思う。そしてドローイングで建築的にどれだけのクオリティー、力強さを描き出せるか、それは,
実物がどうかと同時に存在する、最大の問題の一つであると思う。

Inomata Teppei さんのコメント...

>sugi
実物に比べると模型とかだと設計者の意図とは関係なく、見る側が勝手にいろんな解釈をしてしまいやすいからね。

>toru
確かにメディアテークは結構迫力あるよね。
あれから伊東さんも軽い建築っていう言葉あんまり使わなくなったような気がするなぁ。気のせいかな。

>todome
極端かもしれないけど「建築家の建築は”最終的”にドローイングの上にしか存在しない」ということは実現しなくても構わない、むしろ実現しないほうが建築家にとってその建築がリアルであるということになるのかな?
当然のことかもしれないけど「ドローイングの上にしか存在しない建築」と「実物としての建築」、両者は二者択一で是か否かをいえるものではなくむしろ隣り合っていて補完的なものだと思う。

Unknown さんのコメント...

ひとつ、建築家の仕事の純粋な内容は「図面とドローイング」これに尽きる。
いわゆる脚本やレシピみたいなもの
もっとも純粋な建築家の建築・思想・理想・形状の実現という点で
”最終的”にドローイングの上にしか存在しないというのはあるし。もっと言えば頭の中、図面自体
これにどこまでのものが表現できるのかがやるべきことである。
実現する段階でいろいろな雑味が混じるし、実は建築家の手を離れる(一人で作る人もいるけどね)。
正味、ドローイングのみで生きている人間もいるし、CG全盛のこの時代ゲームクリエーターがデザインする仮想現実内の背景だって
プレゼンのし様によっちゃ捨てたもんじゃないとも思ったりするし。

だけど批判するぜ
ドローイングは現実と現実の物理をベースとする。
レシピは現実の食材と調理法で考える。
つまるところ

我々は文字通り「絵に描いた餅」これだけで満足できるのか否か。
空腹を抑えられるか。
餅を描いた絵を売ったお金で買った餅を食う人もいるけれど
餅は食うものだからこそ餅の絵は売れる。
餅が描くものになったら、餅ではなくなる
その前提が崩れた時点で凧に書かれる張飛のように意味合いが薄くはならないか

2次元の女の子に置き換えても可


とここまで書いて読み返したところ、トドメは実物が大事じゃないといってる
わけでもないのか?w

匿名 さんのコメント...

そっちを俯瞰的に見ながら。。。

ある過渡期をすぎてから、”ドローイング”(実物以外の媒体)どうこうなんて話は、若干タブーな風潮がある(気がする)。ペーパーアーキテクトなんて聞くと、アホかといったまなざしすらおこる(きもする)。誰も描かれるものの力を、実際のところ信じていない。

”ドローイング”が表現の手段になったら終わりである。それは9割(知らないけど)が建築家自身のためにあるべきだから。その過程ではさまざまなディスカッションとそれに応じた”ドローイング”があるべきである。建築のリアリティーとはどこにあるのか?リアルな模型とは何か?コンセプチャルでなく、抽象度の高い模型で作り出し得る、”リアル”な空間の質とはなにか?

建築のスタディーの仕方を考えるべきだと思う。

そんな事を考えていたのだ。

Unknown さんのコメント...

ふむ。
最近それとは別の話になるけれど、

最近自身の思考の深化やドローイングの鍛錬、、、の後

それをいかに共有するか、共有する方法

そしてそれが可能な場所、機会
とくに顧客との

実はそっちのほうが大事
ってことはないけど、モデリングとその後のフォトショくらいの比率で大事なんじゃないか

と思うのね